被爆遺構展示館の園路

  広島市中区中島町の平和記念公園(旧中島地区部分)に造られた「被爆遺構展示館の園路」を取り上げました。
※旧中島地区にあった“天神町筋”にそって2024(令和6)年3月に整備開通しました。
中國新聞2024(令和6)年3月2日報道によると
『平和記念公園で、平和記念資料館東館と国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を結ぶ新たな園路が2024年3月1日開通しました。
広島市が、原爆で壊滅した旧中島地区にあった通り「天神町筋」に沿って整備。街の痕跡を伝える被爆遺構展示館を経由し、来訪者に往時をしのばせようとしています。
園路はアスファルトで全長121m。うち国立追悼祈念館南側前の北端から、被爆アオギリを避けて二股に分かれる南側までで、黄土色のカラー舗装がなされています。
天神町筋が通っていたルートで、ほぼ中間にある被爆遺構展示館内の天神町筋跡と道幅が重なります。平和記念資料館東館北側前の二股部分は石畳風に仕上げてあります。
2923(令和5)年11月に着工し、事業費は3,800万円。
旧中島地区は広島有数の繁華街として知られ、天神町筋にも多くの商店や住居が立ち並んでいました。
地区全体で約4,400人が暮らしていたとされますが、被爆死亡率が100%に近い爆心地の500m圏内に大半が入り、街は壊滅しました。・・・』
下記は私見です。
「九千万円余りを掛けて建てた被爆展示館は、10u弱の被爆遺構展示で14万もの人々を殺した原爆の惨禍を感じろと云われても、余りにも貧弱な施設と思うのです。
見学者の回遊性をよくするためと云うものの、
園路に、3,800万円もかけて造るのなら、被爆遺構展示館にその金額をつぎ込み展示スペースを少しでも広くすべきだったのではなかったのか?と思わずにはおられません。」
また、この園路工事で、被爆アオギリたちの根を痛め、G7広島サミット記念館工事と共に小さい方の被爆アオギリを弱らせる原因のひとつにもなっていると思います。
ここの処、平和記念公園の総合的全体的な思考が欠如し、環境影響評価を考えず小さい施設などを造ることが多くなってきているのではとおもわずにはおられませんので、この園路も取り上げました。
アプローチ部分がよくわからない画像構成でしたので、出入口に当たる部分等を撮影し、この頁を更新しました。
25.03.09.更新  25.02.17.裕・記編集

平和推進課の公開資料を使用しています
「被爆遺構展示館」の園路
平和記念公園には被爆前、多くの人々の日常の営みがありました。
1945(昭和20)年8月6日その日常が一発の原子爆弾により、一瞬にして失われてしまいました。原爆被害の凄惨さ、核兵器の非人道性を伝えるために、被爆の実相を直接見て肌で感じていただけるよう、原子爆弾による被害の痕跡が残る住居跡やアスファルト舗装された道路跡などを「被爆遺構展示館」で露出展示しています。
この度、平和記念公園全体の回遊性に資するため、被爆前にあった天神町筋と同じ幅員の園路を整備し、完成しましたのでお知らせいたします。
利用開始日
  2024(令和6)年3月1日(金)から
園路の概要
  幅員・延長
  ア 旧天神町筋
   ・ 幅員:5m
   ・ 延長:66m
  イ アプローチ
   ・ 幅員:3.4m
   ・ 延長:55m
上記資料:市民局 国際平和推進課

24.03.14.撮影
中区中島町1 平和記念公園内 〔被爆遺構展示館南側出入口の東側よりみました〕

24.03.14.撮影
被爆遺構展示館南側出入口よりみました

24.03.14.撮影
南側から被爆遺構展示館の方をみました

24.03.14.撮影
遺構遺構展示館北側出入り口から北側の方をみました

24.03.14.撮影
既存道路から被爆遺構展示館の方をみました

24.03.14.撮影
園路北側から南側の方をみました
アプローチ部分

25.02.20.撮影
園路への出入口(アプローチ)西側 建屋:G7広島サミット記念館

25.02.20.撮影
園路への出入口(アプローチ)東側  横は:被爆アオギリなど

25.02.20.撮影
アプローチ東西部分をみました  床:舗石ブロック仕上



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