ざいもくちょうあと・ひ
材木町跡碑

  広島市中区中島町の平和記念公園(平和記念資料館東館北側緑地帯)に建立されている「材木町跡」碑です。
※2008年8月根際に“材木町・説明板”が設置されました。(最下段にリンク先を記述していますので)
           材木町跡
建立者: :旧材木町生存者有志
建立日: 昭和三十二(1957)年八月六日
*爆心地から≒500mしかなかった事から一瞬にして町は壊滅したと聞きます。
広島原爆戦災誌によると
『中島本町1,330戸4,370人(数字的には材木町もこの中に含まれます)。
材木町は建物疎開がなかった。
家屋被害全壊約100%、人的被害約100%と記述があり、また浄円寺境内跡に町内に散乱していた人骨を集め防火用貯水槽を埋め、その上に誓願寺の池の玉垣を積み重ね墓標を建てたそうで、後年平和記念公園の供養塔に納骨した。』
との記述もあります。
この材木町跡碑が、ポツンとひとつ囲いもなく建立されている事がより悲しさを誘い、(わたしは)いつも垂れた頭で目頭が熱くなるのです。
2001(平成13)年撮影してこの頁を編集しました。
2002年・2003年追加撮影して、この頁を更新しました。
2008(平成20)年8月はじめにこの「材木町跡碑」の根際に「材木町・説明板」が設置されました。
いままでポツンと佇んでいたこの碑にやっと仲間ができたように思いましたので、撮影しこの頁を更新しました。
2014(平成26)年前日の雪がこの碑の回りにも残っていましたので撮影しました。
2017(平成29)年この材木町跡碑とは直接的に関わりがないのですが、周りの風景が変わったことを取り上げました。
この材木町跡碑の奥側にある公衆便所が、
2016(平成28)年10月から解体され、
2017(平成29)年9月みたときは新しいコンクリート打ち放しの公衆便所が完成していましたので利用し,、撮影しました。
(和風便器だった旧公衆便所が、ウエスタンスタイルの便器へと一新されました。)
2023(令和5)年7月観光客(人出)が戻ってきた平和記念公園でだったので、この跡碑も撮影しました。
2020年コロナ禍※から閑散としていた平和記念公園でした。
2023年kロナ禍が終息したわけではありませんが、感染性法5類に格下げになり人出が戻ってきた平和記念公園でした。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、
2019年12月初旬、中国武漢市で第1例目の感染報告からわずか数ヶ月で世界的流行になりました。
2020年1月15日国内初の新型コロナ感染患者を確認。
2020年2月1日新型コロナウィルス感染症を感染症法における指定感染症に指定されました。
2020年4月16日広島県(でははじめて)を含む都道府県に国が緊急事態宣言を発しました。
2023年5月8日新型コロナが感染症方の2類相当からインフルエンザなどと同じ5類に格下げされました。
24.08.23.更新     01.10.25裕・編集
2001年撮影(2002年・2003年撮影)

01.10.25.撮影
広島市中区中島町1  平和記念資料館北側緑地帯 

01.10.25.撮影

02.08.28.撮影

02.08.28.撮影

03.01.05撮影
碑を後から撮影しました。原爆死没者慰霊碑を観ているような(自然石の)碑の傾きは何を意味しているのでしょうかネ
2008年撮影

08.08.16撮影
(材木町跡碑の根際に「材木町・説明板」が2008年8月設置されました)
2014年撮影

14.12.18.撮影
(向側の建物は、通称:原爆資料館です)
2017年撮影

17.01.28.撮影
(向側の建物、通称:原爆資料館耐震行使中で仮囲いが設置されています)

17.01.28.撮影
(材木町跡碑の奥側の公衆便所解体用の仮囲いが設置されていました)

17.09.19.撮影
(材木町跡碑の奥側の公衆便所新しくなっていました)
2023年撮影

23.07.20.撮影
コロナ禍を経ても変わらぬ「材木町跡・碑」でした

23.07.20.撮影
(≒北西からみました)



  平和記念公園」編



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材木町跡碑
材木町・説明板


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