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1945 |
昭和20年8月6日 |
8時15分米軍原子爆弾投下 |
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昭和20年8月8日〜 |
爆心地に近い慈仙寺(現在の原爆供養塔付近)の境内は、臨時火葬場となり、そこには、氏名、年齢、性別などほとんどわからない痛ましい無数の死体が運ばれ火葬されました。 |
1946 |
昭和21年1月 |
宇品神田3丁目養徳院住職・国居道憲、呉市西辰川町白蓮寺住職・吉川元晴らが原動力となって、広島市戦災死没者供養会が設立され、名誉会長に浅野公爵、会長に広島市長が就任しました。 |
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昭和21年4月29日 |
慈仙寺鼻に供養塔を建設することが決定されました。 |
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昭和21年5月26日 |
広島市戦災死没者供養塔が慈仙寺鼻に完成し開眼法要
この供養塔は、卒塔婆を形どった高さ6mのもので、当時は木材不足のため張りぼてでした。 |
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昭和21年7月20日 |
(バラック建ての)仮納骨堂と礼拝堂が市民の喜捨により建立されました。
8月6日供養塔前で各宗派合同の慰霊祭が行われ、以後毎年慰霊祭が行われることになりました。 |
1948 |
昭和23年10月13日 |
ヘレンケラー(1880-1968)女史(11年ぶりに)広島訪問。この広島市戦災死没者供養塔へも訪問。
※ヘレンケラー女史は長崎も訪問、如己堂で永井隆博士と固い握手を交わされたました。 |
1950 |
昭和25年5月10日 |
広島市戦災死没者供養会は、「広島戦災供養会」に改組※され、この新供養会は、地元各界から選ばれた民間組織となりました。
以後毎年の慰霊祭は、供養会主催により8月6日、朝6時15分から執行されています。
(※政教分離を求めるポツダム政令に基づいて改組されました) |
1853 |
昭和28年9月21日 |
広島戦災供養会が広島戦災供養塔の本格的な建設運動を決定しました。
(既存の供養塔は仮建築であり、原爆犠牲者の遺骨収容も限界に来ていることから) |
1955 |
昭和30年6月15日 |
新供養塔地鎮祭。
新供養塔は旧供養塔の50m北寄り、設計者は石本喜久治(1894-1963)
大きさ直径16m、高さ3.5m、桃山時代の御陵を摸し造成された塔で表面は芝生を植えています。
広島戦災供養会の募金50万円+広島市費300万円=建設費350万円 |
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昭和30年8月5日 |
新供養塔完工式
広島戦災供養会は供養塔の建設に合わせて供養塔北側に新塔婆を建立(開眼法要)
塔婆:周囲3尺(≒90cm)、高さ33尺(≒10m)、重さ4屯:宮崎県の有志からの寄贈。 |
1956 |
昭和31年6月 |
供養塔上部へ相輪1基、供養塔根際に石灯篭一対
中国電気の親交会寄贈(工費35万円)。 |
1960 |
昭和35年4月 |
供養塔前石燈籠一対(4月6日:献灯式)
全国信用金庫が寄進。 |
1981 |
昭和56年2月 |
(広島訪問の)ローマ法王ヨハネ・パウロ2世に原爆死没者慰霊碑だけでなく、原爆供養塔にも参拝をと広島県宗教連盟(森安忠理事長)が要望する。政教分離から広島市は困惑したそうです。
後日、法王代行としてアゴスティーノ・カザローリ枢機卿が参拝されました。 |
2005 |
平成17年1月14日
平成17年3月11日 |
防水工事を中心とする本格的補修工事に伴う遺骨移転の為の慰霊式
広島戦災供養会主催で防水工事終了に伴う慰霊式を行う。 |
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平成17年7月21日 |
「原爆供養塔折鶴奉納台」が広島市に寄贈される(供養塔前左手に設置)
広島市若葉ライオンズクラブが寄贈。 |
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平成17年8月5日 |
広島市が「原爆供養塔年表板」を供養塔前右手(東側)に設置 |