(レストハウス展示の)被爆ピアノ

  中区中島町の平和記念公園レストハウスに展示されている「明子さんの被爆ピアノ」を取り上げました。
  明子さんの被爆ピアノ
このピアノは1926年、米国のボールドウィン社で製造され、同(大正15)年5月25日にロサンゼルスで生まれた河本明子さんが愛用していました。
1938(昭和8)年、明子さんは父源吉さん、母シヅ子さん、弟信彦さんとともに広島に移り住みました。
1945(昭和20)年8月6日、広島に(米軍)原爆投下。(広島女学院専門学校3年時)学徒動員で奉仕活動中だった明子さんは爆心地から約1km(の現在の合同庁舎辺り)で被爆し、翌7日夕方に19歳の生涯を閉じました。病名は「急性放射能障害」でした。
明子さんの自宅(当時三滝町山65-1)にあったピアノも爆風により、多くのガラス片で傷つきました。
2005(平成17)年8月、調律師坂井原浩氏による困難な修復作業を終え広島で開催された被爆60周年平和祈念「被爆ピアノチャリティコンサート」で蘇りました。以来「明子さんのピアノ」は、あの日の出来事を現在に伝える貴重な「被爆遺産」として平和の調べを奏でています。
このピアノは、一般財団法人HOPEプロジェクト所有・管理しています。
2021年もコロナ禍の中でしたが、改装されたここレストハウスを見学した時、ここで取り上げた被爆したピアノの展示が目に留まりましたので撮影していまっした。
コロナ感染の終息には程遠いというものの経済優先の政策を選択している2023年になりましたが、この頁を編集しました。
      23.01.22.裕・記編集

21.10.07.撮影
広島市中区中島町1  レストハウス2階

21.10.07.撮影
(傷跡をみました) (爆心地方向だったようで)側面に原爆の爆風で飛んだ硝子片による傷跡

21.10.07.撮影

21.10.07.撮影



平和記念公園」編


被爆した建物・構築物」編



広島ぶらり散歩へ
広島市平和記念公園レストハウス
   (2階展示)明子さんの被爆ピアノ
 旧燃料会館地下室
   レストハウス改修その工事他
    (改修工事中)仮設レストハウス
燃料会館・原爆被災説明板
野村英三さん「爆心に生き残る」の原稿


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