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中区中島町の平和記念公園内を通る旧西国街道沿いに建立されている「中島地区原爆被災説明板」です。 |
中島地区原爆被災説明板は、平和記念公園内に設置された原爆被災説明板4箇所のうちの1つです。
被爆前の広島市の繁華街だった中島地区の残り香は、現在の平和記念公園にはなにも残っていないと云えるではないのでしょうか。
この中島地区原爆被災説明板の画像中央は、1899(明治32)年に住友銀行広島支店として建てられ、被爆当時は(貿易商の)藤井商事が入っていたレンガ造2階建の建物でしたが(画像でお解りのように)原爆で破壊されました。その後ろに広島県産業奨励館(今の原爆ドーム)が写っています。 |
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爆心地から約100m〜700m |
中島地区(現在の平和記念公園一帯)は、幕末から明治・大正・昭和にかけて(広島)市内有数の繁華街としてにぎわっていました。
1945(昭和20)年8月6日、爆心地から至近距離にあったこの地区は、全滅状態となりました。この日は、多数の学徒と地域や職場から動員された人々が(現在の平和大通り周辺で)建物の疎開作業のため動員されていました。顔の判別もつかぬほど焼けただれ、水を求めて川岸に集まった生徒たちは、全員が死亡しました。 |
写真説明:中島本町一帯の惨状 佐々木雄一郎氏撮影1945(昭和20)年9月 |
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2002年にこの「中島地区・原爆被災説明板」を撮影してこの頁を編集しました。
2004年になってこの中島地区原爆被災説明板の近くに建立されている「中島勧商場跡説明碑」をここ中島地区の昔の事がわかる碑ということで、この頁に加えて追記しました。 |
2014年この頁を編集して10年も過ぎましたので、見直しているとこの「中島地区原爆被災説明板」の周りの状況がわかる画像がありませんので、改めて撮影しました。
また、この頁に加えていた「中島勧商場跡説明碑」は、中島地区関連の頁として独立の頁にしました。
久しぶりに2019年撮影しましたので、この頁を更新しました。 |
20.01.12.更新 02.04.10裕・記編集 |