広島市中島本町被爆復元図・碑

  中区中島町の平和記念公園に建立されている“中島本町町民慰霊碑”の根際に建立されている「広島市中島本町被爆復元図」碑です。
中島本町は、元安川と本川に挟まれたデルタの北端地区で、特にその先端部分を「慈仙寺鼻」と称していました。
毛利輝元(1553-1625)による広島築城当時からの町で、町名は中島の本通りであることに由来しています。
この町の北端には、T字型の橋として有名な(原爆の投下目標ともなった)相生(あいおい)橋が架けられました。
町域のほぼ中ほどを中島本通商店街(旧西国街道)が横断し、映画館・カフェー・ビリヤード場などの娯楽施設や、銀行支店などの商業・金融施設が集中する中島地区の中核でした。
原爆の犠牲になった町民は458人にも上ったといわれています。
中島本町は爆心地より≒100m〜700mでした。

09.10.09撮影
2006年「中島本町被爆復元地図:板」の頁を編集しましたが、復元図には、現在平和記念公園に残されている被爆墓石があった慈仙寺、原爆被災説明板に写っている藤井商事はと現場ではこの地図をみたのです。
2014年になりましたが、地図にはそれぞれに店名、住居者氏名などが記述されていますので、画像を拡大してそれらが読める頁を編集しようと思い別頁で再編集しました。
14.07.06.再編集   06.10.10裕・編集

06.09.02.撮影
広島市中中区島町1 平和記念公園    中島本町町民慰霊碑(平和乃観音像)の北側にこの中島本町被爆復元図が設置されています
『このあたりは、元安川、本川の水運に恵まれ、広島城下の商業の中心地でした。明治15(1882)年には各種商品を取扱う集団的な小売店舗商業として中島集散(集産)場が開設しました。明治25(1892)年には中島勧商場と改称されました。附近には映画館(活動写真)、撞球店、射的場などの遊技場が軒をつらね、昭和初期まで市内第一の歓楽地として繁栄をつづけていました。』
他に横町の広島商工倶楽部、堀川町の広島中央勧商場、堺町勧商場、胡子勧商場、横町勧商場などが明治末期までに次々に開設したそうです。
大正元(1912)年 市内電車が運転しはじめると、紙屋町・八丁堀・広島駅前・宇品海岸通が新しい盛り場として賑わいだしました。
大正10(1921)年 堀川町の勧商場跡地に最新の盛り場「新天地」が誕生しました。
昭和2(1927)年 新天地につながる薬研掘から流川筋にかけ東新天地が誕生しました。
昭和4(1929)年 百貨店「福屋」の出現につながっていくのです。

(中島本町北部分の拡大)

(中島本町南部分の拡大)

(南東部分)

(南西部分)

12.08.01.説明板撮影
平和記念公園(周辺)に設置の各種説明板
1 名勝・平和記念公園(説明板)
2 平和記念公園(原爆で失われた街中島地区)
3 爆心地・原爆被災説明板
4 猿楽町通り周辺・原爆被災説明板
5 広島県産業奨励館・原爆被災説明板
6 元安橋・原爆被災説明板
7 燃料会館・原爆被災説明板
8 中島地区・原爆被災説明板
17 本川国民学校・原爆被災説明板
9 元柳町・説明板
10 材木町・説明板
11 天神町・説明板
12 中島本町・説明板
13 原爆ドーム・説明板
14 原爆供養塔説明板(旧町界と町名・図)
15 中島本町被爆復元地図:板
16 中島勧商場跡説明碑
 



平和記念公園・周辺項目一覧表


平和記念公園」編



広島ぶらり散歩へ
中島本町町民慰霊碑(平和乃観音像)
  中島本町原爆死没者芳名:碑
  荒井秀山作:平和乃観音像
中島地区原爆被災説明板
中島本町被爆復元地図:板
中島本町・説明板
中島勧商場跡説明碑


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