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中区中島町の平和記念公園に建立されている「原爆死没者慰霊碑」です。
※正式な名称は「広島平和都市記念碑」といいます。 |
※現在の原爆死没者慰霊碑は、二代目です。初代は、コンクリートの劣化で改築されました。
1952(昭和27)年8月6日 |
建立、除幕。(鉄筋コンクリート造で作られましたが、のち劣化し解体され改築) |
1985(昭和60)年3月26日 |
完成、除幕式。
改築で御影石〔稲田石〕製=(屋根部分)となりました。石室は黒御影石製です。 |
古代埴輪(はにわ)からヒントを得た設計だそうです。
慰霊碑中央の石室には、原爆死没者の過去帳(原爆死没者名簿※)が納めてあり 毎年追加されています。 |
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碑文 「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」 の趣旨 |
広島市は(碑文の)趣旨を正確に伝える為に1983(昭和58)年11月3日、日本語・英語の説明板を設置しました。 |
「碑文は、すべての人びとが、原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え、憎しみを乗り越えて、全人類の共存と繁栄を願い、真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心が、ここに刻まれている。」と記されています。 |
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碑文の趣旨を正確に伝える為に1983(昭和58)年11月3日、日本語・英語の説明板が設置されましたが、
2008(平成20)年8月29日G8議長サミット(日、加、仏、独、伊、露、英、米)に向けて、(下記)8ヶ国語へと増設、新しい説明板が設置されました。 |
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「2024(令和6)年8月6日時点で、亡くなったり死亡が確認されて、原爆死没者名簿記載の方々は(この一年で5,079人増え)、344,306人」になりました。
名簿は全部で、(三冊増えて)128冊になったそうです。
(これには、2006年に加えられた「氏名不詳者多数」とだけ記した一冊が含まれています。) |
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上記128冊とは別に、(2009年に加えられた)一冊があります。(ので、全部で129冊です)
この一冊には長崎で被爆し広島の原爆死没者慰霊碑へ記帳を希望され記載している2010年までの8名に2011年1名を加え合計9人の名が記載されているそうです。
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2024年3月末時点で、(広島、長崎で被爆して)被爆者健康手帳を持つ人は、106,825人(厚労省発表)だそうです。 |
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広島市は、被爆者動態調査第7期調査(1999年度〜2012年度)実施、
『今(第7期)回の調査で、被爆者が「557,478人」に上ることが分かった。
原爆死没者名簿に記載されている人は、昨(2012)年8月6日時点で「280,959人」ですが、名簿に重複記載されている人が多数ある事も分かった』そうです。 2013年3月24日中國新聞報道で知りましたので追記しました。 |
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2000年、わたしはHP「広島ぶらり散歩」を編集しようと思った時、その中の項目編集を平和記念公園からはじめようと思い、この「原爆死没者慰霊碑」から撮影しこの頁を編集しました。 |
2002年この原爆死没者慰霊碑にペンキがかけられる事件が起きました。
2005年この原爆死没者慰霊碑の碑文が傷つけられる事件が起きました。
2012年原爆死没者慰霊碑に金色塗料汚損事件、原爆死没者慰霊碑・赤色で汚される事件と続きました。 |
(別頁で編集し、下段にリンク先を示しています) |
ことし2023年は、通称・平和記念式典は新型コロナが第5類に指定替えされたことから参列者席を増やし開催されましたが、まだコロナ禍以前の式典規模には戻っていません。
わたしはTV中継をみました。原爆死没者名簿に記された方々の数を更新しました。 |
24.08.06.更新 00.01.15裕・編集 |
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00.01.10撮影 |
広島市中区中島町1番 平和記念公園の原爆死没者慰霊碑 |
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00.01.10撮影 |
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」 |
主語をめぐる論議がありました。 |
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(今を生きる私達は戦争という)過ちを繰返さないという誓いの碑文です。
碑文の古典研究に造詣深い雑賀忠義
(1894-1961)当時広島大学教授が考え自ら揮毫されたものです。 |
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05.07.28撮影 |
平成17(2005)年7月26日夜 「過ち」部分を傷つけられた原爆死没者慰霊碑を7月28日撮影しました |
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00.08.27撮影 |
(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館工事用の仮囲いが設置されていました) |
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01.09.10.撮影 |
平和記念資料館 - 原爆死没者慰霊碑 - 原爆ドーム が(≒南北方向に)一直線になる配置になっています |
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04.12.24撮影 |
(薄暮の中、“平和の灯”が輝いて見えましたので撮影しましたが、わかりにくいですね) |
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06.04.15撮影 |
(真横から撮影していませんでしたので、≒東から撮影しました) |
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06.08.06撮影 |
(原爆忌8月6日、原爆死没者慰霊碑警備中の広島市職員、国旗掲揚台の日章旗は半旗でしたので撮影しました) |
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08.09.04撮影 |
8ヵ国語の説明板に(2008年8月末に)増設されましたので、撮影しました |
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20.08.06.撮影 |
(被爆75年通称・平和記念式典は、コロナ禍で参加者を限定したので参列できず式典後を撮影しました) |
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20.09.15.撮影 |
原爆死没者慰霊碑(NHK広島放送センタービルからみました) |
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20.09.15.撮影 |
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20.09.15.撮影 |
(通称)原爆資料館⇔原爆死没者慰霊碑⇔原爆ドーム:当初計画の平和記念公園南北縦軸 |
手前:平和記念資料館東館⇔(通称)原爆資料館⇔国際会議場:当初計画の平和記念公園東西横軸 |
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「平和記念公園」計画、競技設計(コンペ)について |
広島市復興局により実施。
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募集要綱には
旧産業会館を含む中島地区一帯を対象として、平和記念館、原子爆弾災害資料の陳列館、集会場、平和の鐘を釣る塔などの配置が求められていたそうです。 |
1949(昭和24)年7月20日締切り時、145点の応募があったそうです。
当時東大助教授・丹下グループ案が1等になりました。 |
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平和記念公園は、丹下健三(代表)、浅田孝、大谷幸夫、木村徳国、四名の設計です。 |
コンペ入選の当初案は平和記念館--巨大アーチの慰霊塔--旧産業奨励館(原爆ドーム)を一直線の南北基軸とし、
平和記念館には、(東に)本館+(中央に)陳列館+(西に)集会所を配置した案でした。〔+部分は空中歩廊で繋ぐ〕 |
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当初(の原爆死没者慰霊塔)計画案では、ベルをつるした巨大なアーチでしたが、市の予算難などから変更、最終的には埴輪型になったそうです。
[競技設計審査員の一人岸田日出刀(建築学者、造形意匠:1899-1966:1929年東大教授)の「慰霊塔計画案は先例と軌を一にしている」との指摘もあったそうです] |
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(巨大アーチ案の次に、丹下健三が依頼した)米国人を母に持つ彫刻家イサム・ノグチのデザインの『広島平和都市記念碑』は、「原爆を落とした国の人間がつくるのは筋違い」と、広島平和都市建設専門委の反対に遭って、ノグチ案を修正した丹下健三設計の(現在の)埴輪型になりました。 |
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当初案は巨大な「平和のアーチ」でしたが、コンクリート打放の埴輪をデフォルメ(=変形すること)した丹下健三設計になりました。
正面から見た底辺4.7m、高さ3.67m、横の上辺8.29m、下辺5.26mに縮小、変更され、工費300万円だったそうです。 |
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(平和記念公園)南北基軸 と 東西軸 |

国土地理院の地図を使用し加筆しています |
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敬称は略しています |