はら たみき しひ
原民喜詩碑

  広島市中区大手町の平和記念公園(大手町地区)に建立されている「原民喜詩碑」です。
※2005年この原民喜詩碑が、南へ4mほど移設されました。
※2014年黒御影石碑面に(自然に入ったと思われる)クラックがあることが分かりました。
*2016年碑の根際床に英訳板が設置されました。(英訳をした人物はわかりません。)
・原民喜(1905-1951) は、
1951(昭和26)年3月13日東京・西荻窪で鉄道自殺〔朝鮮戦争中でトルーマン大統領(1884-1972)の原爆の使用もありうるという声明に失望してともいわれています〕しました。
・原民喜詩碑は、
その(1951)年11月に広島城跡の石垣を背にして建立されましたが、心ない人々の石投げの的にされ傷だらけになり、裏面の銅板も盗まれたりしたので、1967(昭和42)年7月29日に修復して平和記念公園内に移築されたそうです。
建立年: 1951(昭和26)年11月15日 *11月15日は民喜誕生日
建立者: 原民喜委員会(日本ペンクラブ、広島文学協会)
碑設計: 谷口 吉郎(東工大教授)
碑形状: 御影石製 高さ:93cm 幅:61.5cm 厚さ:27.5cm









  



























2016年設置の英訳板

広島西南ロータリークラブ寄贈
-英訳をした人物の記述はない-
Monument to Tamiki Hara
Engraved in stone long ago,
Lost in the shifting sand,            *shift≒
移し変える
In the midst of a crumbling world,
The vision of one flower.            *vision≒
幻影
  参考-グーグルの翻訳-   参考-エキサイトの翻訳-
原民喜のモニュメント
ずっと前に石に刻まれた
変化する砂に迷い
崩壊する世界の真っ只中で
一輪の花のビジョン
原民喜への記念碑
ずっと前に石に刻み付けられる
シフト砂に血走っている
破砕世界の中央で
1つの花のビジョン
原民喜 (1905-1951) はらたみき
  詩人、小説家。広島市幟町162に生まれる。広島高師附属中校、慶応義塾大学英文科卒業。
1933(昭和8)年永井貞恵(文芸評論家・佐々木 基一の姉)と見合い結婚。1936(昭和11)年ころより『三田文学』に散文詩風な短編を発表しました。1944(昭和19)年9月貞恵死去。
1945(昭和20)年1月末(千葉市登戸の家をたたみ)広島市の兄のもとに疎開。
1945(昭和20)年8月6日(月)原爆投下時に幟町の生家で被爆、泉邸(縮景園)へ逃れ、広島東照宮下で野宿、そして佐伯郡八幡村に避難。この体験は『夏の花』『鎮魂歌』などの作品となりました。
1946(昭和21)年4月上京、慶応大学夜間中学に(英語講師として)勤め、『三田文学』の編集に携わります。
1947(昭和22)年『夏の花』を同誌に発表、世評高く、これにより第1回水上滝太郎賞を受賞。作品にはほかに『廃墟から』(1947年)、『壊滅の序曲』(1949年)、『心願の国』(1951年)、『原民喜詩集』(1951年細川書店)などがあります。
1951(昭和26)年3月13日夜中央線吉祥寺〜西荻窪間の鉄路で自殺(朝鮮戦争中でトルーマン大統領の原爆の使用もありうるという声明に失望してといわれています)。
『夏の花』以下一連の原爆小説は、凄惨な内容ですが抑制された文体で描いていて、感銘もいっそう深い作品と云われています。
「夏の花」 〔黄色の小瓣(弁)の可憐な野趣を帯び花、何といふ名称なのか知らないと書いています〕
1945(昭和20)年8月6日(月)8時15分米軍投下の原爆では幟町の生家で被爆しました。自らの被爆体験を記録的に短編小説にした作品です。
「夏の花」を読むと泉邸(縮景園)、饒津公園、東照宮、常盤橋で転覆していた貨物列車などなど、わたしのおじさんが1945(昭和20)年書き残した『原爆記』と重ねてその悲惨さ〔戦後生まれのわたしですので直接目にしたわけではないのでその万分の一ではあるのでしょうが〕わかってくるように思った作品です。
2002年この原爆ドーム東側に建立されている原民喜詩碑を撮影してこの頁を編集しました。
2005年5月19日から平和記念公園東側の歩道整備工事に伴い、約4m南に動かす工事を始めたそうです、7月28日訪ねた時はほぼ工事は完成していました。
新聞報道で、『2014年11月13日にこの詩碑にひびが入っている事がわかり人為的な(故意の)ものか、自然のものかわからないので調査をする』と知りましたので、18日になりましたが訪ね、久しぶりに撮影しました。
建築屋のはしくれだったわたしは、“人為的なひび割れでない”と思うとその日会った建築屋だった兄に話しました。次の日(19日)の新聞に『自然劣化が原因と判明した。』とありました。
2019年原民喜詩碑の南側根際の床に英訳板(上記)が設置されていることに気がつきました。
碑とは直接的な出来事ではありませんが、詩碑の南側に公衆便所が建設されることになりその工事の仮囲いが根際に施工されましたので、撮影していました。
2020年公衆便所の工事が終わりましたので、この碑の周りがわかるように撮影しました。
21.02.02.更新  15.01.28.再編集  02.02.20裕・記編集

02.02.16.撮影
広島市中区大手町1-10 (平和記念公園・原爆ドーム東側広場)

02.02.16.撮影
(原民喜詩碑・表面)

02.02.16.撮影



































































































































































































































































































西





































02.02.16.撮影
佐藤春夫(1960年文化勲章受章者)直筆     碑の設計:谷口 吉郎(東工大教授)
南側に移設されました

05.07.10.撮影

05.07.28.撮影
碑移設工事中 新しくなった歩道と≒4m南に移築された原民喜詩碑

05.07.28.撮影
西側からみました(こちら面が表面)

14.11.18.撮影

14.11.18.撮影
新聞報道で、
『2014年11月13日にこの詩碑にひびが入っている事がわかり人為的な(故意の)ものか、自然のものかわからないので調査をする』と知りましたので、訪ねてみました。
ひびわれ(クラック)は、(裏面の)佐藤春夫碑文の黒御影板の端から端まで入っており≒12cmの白華部分が目立っていました。

19.12.12..撮影
「原民喜詩碑」根際の床に“英訳板”が設置    (南側の公衆便所工事用)仮囲い

20.03.30..撮影
後側:「西蓮寺」 (道路を挟んで) 「西向寺」

20.03.30..撮影
「原民喜詩碑」   (床に)「(詩の)英訳板」

20.03.30..撮影
北側からみた「原民喜詩碑」 と 後側:(新しくできた)公衆便所

20.03.30..撮影
北側からみた「原民喜詩碑」

21.01.15..撮影
東側からみた「原民喜詩碑」    後側:保存工事中の原爆ドーム
敬称は略しています



平和記念公園」編



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