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事件の経過 |
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2005(平成17)年12月16日
傷つけられた石板の取替え作業が16日訪れる人が少なくなった午後7時から作業がはじめられ夜を徹して行われ修復が終わった。そして傷つけられた石板は(通称)原爆資料館が収蔵することになっている』ことを12月17日報道で知りました。
小雪が舞う17日午前中撮影に平和記念公園に立ち寄り新しくなった石板を撮影しました。
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5) |
2005(平成17)年11月17日
広島市は傷つけられた石板(120cm×80cm厚10cm)を丸ごと取替える事を決め、11月24日から作業を始め12月15・16日に石板取替作業を予定している』と報道で知りました。
原爆死没者慰霊碑建立(1952年)当時の資料が無く使われた御影石の産地の特定ができず、見本を(周南市)黒髪島、倉橋島、(笠岡市)北木島、香川県庵治町、から取り寄せ検討して、黒髪島と推定したそうです。
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修復費用182万円は碑を傷つけ有罪判決を受け刑が確定している嶋津受刑者に請求するそうですが、報道によると本人は碑文が変えられない限り支払いを拒否すると言っているそうです。 |
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4) |
2005(平成17)年10月26日
原爆死没者慰霊碑の損壊事件で、器物損壊の罪に問われた広島市安佐南区祇園七丁目、政治結社「誠臣塾」構成員の嶋津丈夫被告(27)の判決公判が10月26日、広島地裁であり、飯畑正一郎裁判官は懲役二年八月(求刑三年)の実刑を言い渡した。
判決文の中で裁判長は「自己中心的で未熟な動機で、社会の注目が集まる時期を選んだ計画的な犯行」と指摘。「原爆死没者慰霊碑が世界の恒久平和の願いを込めたものであることは明らか。先の大戦で未曾有の苦しみを味わい、どん底から復興した社会に与えた影響は大きい」』と述べたということをわたしは(ラジオ・TV・新聞などの)報道で知りました。
また、広島市は事件後、粘土を使った応急補修で被爆六十年の節目となる八月六日の平和記念式典に間に合わせたが、近く本格補修を始め、石板そのものの交換を検討しているそうです。 |
3) |
2005(平成17)年8月2日
前日の手直した白粘土に元の御影石のように≒3時間かけて着色して応急補修(耐用期間は2〜3ヶ月)を完了した』そうです。
※本格的修復方法は未定。
※応急修復、本格補修にかかる費用の全額を傷つけた嶋津丈夫容疑者に請求するそうです。 |
2) |
2005(平成17)年8月1日AM4:40ころから
『広島市手配の石工3人が、損傷部分や「過ちは」の文字部分に白い粘土を埋め込み元の文字の掘り込みのように鑢や小刀等で再現した』そうです。 |
1) |
2005(平成17)年7月26日22:55ころ
公園の警備員から110番があり、広島中央署が器物損壊で調べていたところ
27日未明、出頭してきた安佐南区祇園7丁目、政治結社「誠臣塾」構成員で無職嶋津丈夫容疑者(27)を器物損壊(碑文の「過ちは」部分にハンマー(長さ約30cm)とノミ(長さ約20cm)で、最大:横2.5cm、縦1.5cmの傷を、計10数ヶ所に付けた)疑いで逮捕した。「過ちを犯したのはアメリカで、慰霊碑の『過ち』という文言が気に入らなかった。自分一人でやった」などと供述した』そうです。
「文字の周りの損傷が激しく、平和祈念式典までの10日間で完全修復するのは不可能」だそうで、広島市は、樹脂や粘土などで表面を埋める応急処置を施すことで、被爆60年「8月6日」の平和祈念式典をむかえるそうです。 |