「被爆詩人・峠三吉日記からみる1945年」展

  中区中島町の平和記念資料館・東館地下1階で催された「被爆詩人・峠三吉 日記からみる1945年」展を取り上げました。
※2017(平成29)年3月30日~7月17日まで催されました。
資料館では展示概要を次のように述べています。
『“ちちをかえせ、ははをかえせ・・・”の冒頭で知られる「原爆詩集」の著者・峠三吉 の日記2冊が、2016(平成28)年8月日本共産党中央委員会より平和記念資料館に寄託されました。
寄託されたのは、1945(昭和20)年1月1日から11月19日までの被爆日記と、1945(昭和20)年8月から9月に書かれた随意日記です。これらの日記をもとに、のちに「原爆詩集」が出版されました。
この資料展では日記2冊を中心に、被爆前の峠三吉氏の生活、被爆時の惨状をパネルで紹介します。』
峠三吉(とうげさんきち:1917-1953)
詩人。大阪府豊能郡(現・豊中市)生まれ。幼時に広島市大手町へ移る。広島市大手町尋常高等小学校。1935(昭和10)年広島商業学校卒業、広島瓦斯株式会社に勤務。
在学中より詩作を始め、勤務後まもなく気管支の病気(結核罹患とも云われているようです)。キリスト教の洗礼を受けました。
1944(昭和19)年11月頃父・嘉一と、次姉・千栄子の嫁ぎ先である今井家(横浜妙蓮寺)に転居し、同居する。1945(昭和20)年3月10日未明、空襲により今井家経営の工場全焼。6月広島市皆実町の長姉・嘉子嫁ぎ先の三戸家に同居。8月6日爆心地から約3,000mの翠町(の自宅)で被爆(ガラスの破片で負傷).。
戦後、広島で文化運動のリーダーとなり、新日本文学会に参加。共産党入党。1950(昭和25)年に「われらの詩の会」を結成。1951(昭和26)年謄写版の『原爆詩集』を出版。1952(昭和27)年に詩集『原子雲の下より』を編集。1953(昭和28)年国立広島療養所西条病院で手術中に死去、享年36歳の若さでした。
峠三吉生誕100周年に当たることから峠三吉展が催されることになったようで、その目玉として、日本共産党が所蔵していた三吉の「被爆日記」(昭和20年1月1日から11月19日まで)と、「随意日記」(昭和20年8月から9月に書かれた)を寄託されたことでその公開を兼ねたのでしょう。
既に終わってしまった催しですが頁を編集しました。
わたしは、2017年4月27日に見学し、撮影可ということを学芸員に確認し撮影しました。
わたしの亡きおやじ(明治42年生まれですので、峠三吉と同時期に学校で学んだことはなかったのでしょう)が広島商業卒業でしたので広島商業に関する情報があるかもしれないと思ってもいたのです。
 18.03.17..裕・記編集

17.04.27.撮影
広島市中区中島町1 広島平和記念資料館情報資料室

17.04.27.撮影

17.04.27.撮影
被爆日記(実物) 随意日記(実物)

17.04.27.撮影
被爆日記(実物)

17.04.27.撮影
随意日記(実物)

17.04.27.撮影
(原爆詩集原稿)

17.04.27.撮影

17.04.27.撮影
1917(大正8)年8月               県立広島商業学校4年生

17.04.27.撮影
1945(昭和20)年2月頃の家族写真   義兄・藤一郎、姉・千栄子、父・嘉一(かいち)、三吉
1944(昭和19)年11月頃三吉と父・嘉一は、姉・千栄子の嫁ぎ先である今井家の横浜妙蓮寺ね転居し、同居することとなりました。
今井家は、東京の蒲田で「城南航器」という精密機械工場を経営しており、三吉も元気な日には工場の仕事に加わりました。
1945(昭和20)年3月10日未明、東京の下町地区はB29による無差別爆撃があり、推定10万人もの市民が犠牲になりました。高台にあった今井家からも空襲が見え、焼夷弾の投下、B29の低空飛行の様子が(被爆日記に)書き込まれています。

17.04.27.撮影
敬称は略しています



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