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1880 |
明治13年 |
9月4日オーストリア・ハンガリー帝国に属したポーランド国境に近い町ナホト(現チェコ)に生まれる。 |
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*Wikipediaでは4月9日としています |
1900 |
明治33年 |
プラハの美術専門学校入学。
プラハ・アカデミー建築家でヤン・コチェラ教授※の最初の弟子の一人として師事する。 |
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※ウィーンにおける分離派の第一人者オットー・ワグナーの弟子に当たる |
1903 |
明治38年 |
卒業。プラハの設計事務所入所。1905年エジプト(当時英国領)カイロの設計事務所で勤務した。 |
1907 |
明治40年 |
7月来日、横浜のゲオルグ・デ・ラランデ建築事務所に設計士として就職。 |
1909 |
明治42年 |
10月、(同じチェコ人)ヤン・ホラとレツルエンドホラ合資会社を設立、東京市銀座出雲町三番地に建築事務所を開設。 |
1913 |
大正2年 |
4月事務所を麹町区の三菱一号館(三号館との資料も)に移転するが、同(1913)年7月会社解散。 |
1915 |
大正4年 |
設計事務所も閉鎖(第一次世界大戦の不景気で)。 |
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※ |
レツルが設計した廣島縣物産陳列館(4月5日の)竣工式には招待されていません。
∵日本が1914年8月第一次世界大戦に参戦したことで、オーストリア国籍のレツルは敵国人となったからだそうです。 |
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☆ |
1916年(廣島縣物産陳列館竣工の翌年)帰国とする資料もあります。 |
1918 |
大正7年 |
〜1921(大正10)年、独立したチェコスロバキアの東京の公使付きの商務官を勤める。 |
1925 |
大正14年 |
12月26日プラハで病死、享年45歳。 |
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