原爆ドーム・地下室への階段

  中区大手町の平和記念公園に残る原爆ドーム(竣工時・広島県物産陳列館)地下室に降りるコンクリート造の階段をこの頁では取り上げました。
1915(大正4)年4月5日廣島縣物産陳列館(広島県物産陳列館)として竣工した建物は、鉄骨入りレンガ・石造り、3階建(一部5階)地下1階。高さ82尺(≒25m).。セセッション様式の建物でした。
2000年11月「旧・廣島縣産業奬勵館」の頁を編集する時、資料で地下室かあることを知りました。
しかし、それ以上の事はわからなかったのです。
地下室へは、(現在も残る)鉄骨螺旋階段残骸に接して東側に(コンクリート製)階段があり、(1スパン)1部屋の地下室かあり、3方コンクリート壁で、階段側壁には出入口、その横(上部に明り取り用の)窓が付いていたようです。
2008年広島平和記念資料館企画展「被爆建造物は語る」を見学した時、
各階平面図などが展示されており、1階平面図の上部に地階の平面図が描かれており、地下室は厨房室で、1スパンの一室というような(上記のような)事が読みとれました。
地下室(は厨房室)で調理した料理を階段を上がった1階所長室前の配膳室に持ってきて配膳したのではと思いました。
この頁では、その地下室への階段跡を取り上げ頁を編集しました。
地下室は瓦礫が入っているようで、階段も半分以上埋れているようで、地下室内をみることはできないようでした。
広島市は、毎年『国内ジャーナリスト研修「ヒロシマ講座」』を行っているそうで、
今(2015年)回、その研修中に原爆ドーム柵内の見学があると云う事で、わたしはジャーナリストではありませんが、原爆ドーム柵内の見学に参加させていただけることになり、この地下室への階段(の一部)も北側根際から撮影したので、この頁を編集しました。
東側面(を西側)からもみたのですが、そこからの撮影、階段を少し降りて室中を覗き込むことも躊躇うわたしがいて、撮影は出来なかったのです。
-広島市旧市街地での地下室について(建築屋の端くれであるわたしの私見です)
広島市旧市街地はデルタ地帯に発達した街で水位が高く、地下室を施工する(建築面積を増やす)有利な選択肢ではないのです。
しかし、ここで取り上げた、1915(大正4)年4月5日竣工の廣島縣物産陳列館(爆心地から≒160m)、
同じ平和記念公園にいまも残る、1929(昭和4)年竣工大正屋呉服店も地下室(爆心地から≒170m)があり、
1928(昭和3)年7月竣工の本川小学校(爆心地から≒410m)にも地下室があり、1937(昭和12)年1月竣工の)袋町小学校(爆心地から≒460m)にも地下室がありました。
当時の建築技術的に上へ上へと高層部を建築して床面積を増やすことができず、水位が高く防水が必要であろうとも地下室を設けたのではないのだろうかと思います。
施工時期的に(戦争時の)空襲に備えての地下室設置ではなかったとは思うものの、そのような役割をもたせようとの考えもあったのではとの思いも捨てきれません。
1945(昭和20)年8月6日大正屋呉服店(被爆当時燃料会館となっていた)地下室に居られ、奇跡的に助かった野村英三さんのことを思うと、爆心地から≒160mのこの広島県産業奨励館地下室に居られる方がいたとしたらと考えた事が撮影しようとするわたしの行動を躊躇わしたのかと思ったりしました。
15.08.03.裕・記編集
(1階平面図 図面下が≒西、上が≒東)  灰色で囲んだ範囲が地下室部分 ※図面は広島市の資料を使用しました

15.07.29.撮影
≒北側から廊下からの出入り口開口、地下室への階段をみました
*開口上部に、壁仕上げ材の漆喰がまだ残っているようでした

15.07.29.撮影
画像左側(≒東側)に地下室があり(開口が見えますが)明り取り用窓があった開口と思われます

15.07.29.撮影



「原爆ドーム」編



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原爆ドーム(概説)
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