鈴木三重吉生誕の地・碑(レリーフ)

  中区紙屋町のデオデオ*北側外壁に設置されている「鈴木三重吉生誕の地・碑」です。
※レリーフの作者は、吉田正浪です。
1975(昭和50)年にオープンした本館建屋です(でした)。
わたしが広島に帰ってきた1982(昭和57)年当時は“ダイイチ”といっていました。
1988(昭和63)年三重吉のレリーフ設置されました。
この頁を編集した2004年当時は家電量販店“デオデオ”と云っていました。
1997(平成9)年“デオデオ”となり、2012年より現在の呼称“エディオン”となっています。
2017年4月9日建替えのため閉館。ここで取り上げた三重吉レリーフはみることができません。
2019年上半期完成を目指しているそうです。(オープン時きっと再設置されることでしょうが)。
2018年6月10日追記
2019年6月21日再オープンし、この生誕の地・碑下に説明板が設置されていました。2018年6月25日追記
鈴木三重吉 (すずき みえきち:1882-1936)
1882(明治15)年に広島市猿楽町83番地の1(現・広島市中区大手町2丁目1の13)に生まれました。
現・東京大学(当時・東京帝國大學)英文科在学中の1905(明治38)年、病気療養のため能美島を訪れ、そこでの体験をもとに短編小説『千鳥』を書き上げ、『千鳥』は夏目漱石(1864-1916)から絶賛されました。
以後、山県郡加計町を舞台とした『山彦』などの秀作を発表し、漱石門下生として活躍を続けましたが、1915(大正4)年にいったん筆を折ってしまいます。
小説家としての行き詰まりを自覚した三重吉は、児童文学に自らの進むべき道を見いだし、1918(大正7)年には森鴎外(1862-1922)らの賛同を得て、児童雑誌『赤い鳥』を創刊。芸術的に価値のある童謡・童話を子どもたちに提供しようという画期的な運動をスタートさせました。
三重吉はもちろん、芥川龍之介(1892-1927)や有島武郎(1878-1923)、北原白秋(1885-1942)らが傑作を次々と発表。わが国の児童文学は新しい時代を迎えることになりました。『赤い鳥』には児童の投稿欄も設けられ、特につづり方、児童詩の教育活動に大きな影響を与えました。
2004年5月交流ウォークに参加させていただき鈴木三重吉の生誕地(現デオデオ*附近で)店舗外壁にレリーフが設置されていることを今回初めて知ったのです。
そして原爆ドームの西側(相生橋西詰南)に建立されている文学碑の撮影に行ったのです。
2019年デオデオの建替えが終わり、この生誕の地・碑が再設置されていましたので撮影しました。碑の下に説明板が設置されていました(まだ編集していませんが)。
19.06.25.更新   04.06.10裕・編集

04.05.15撮影
広島市中区紙屋町2-1-18       交流ウォーク・増田義法先生の説明を聴く

04.05.15撮影
レリーフは昭和63(1988)年設置 

07.03.12撮影
広島市中区紙屋町2-1-18 (デオデオ*北側外壁に設置)
鈴木三重吉赤い鳥の会の資料をみていたらこのレリーフの作者が吉田正浪であることがわかり追記しました。
07.07.28追記

19.06.25.撮影
以前とほぼ同じ北側外壁に再設置されていましたが、説明板が設置され碑は高い位置になっていました
敬称は略しました



  「文学碑など」編


「野外彫刻など」編
(吉田正浪作品)



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          鈴木三重吉関連頁
(平和記念公園)鈴木三重吉文学碑
(子ども文化科学館前)三重吉記念碑
三重吉生誕の地碑
(長遠寺)鈴木三重吉の墓碑


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