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中区中島町の平和記念公園に建立されている「(バーバラ・レイノルズさんの言葉)わたしもまた被爆者です」碑です。 |
(云うまでもないことでしょうが)被爆者でない・レイノルズさんですが、被爆者に寄り添ったその活動から出た言葉が碑に刻まれています。 |
私もまた被爆者です
I,too,am a hibakusha |
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バーバラ・レイノルズ(1915-1990) |
広島市特別名誉市民
ワールド・フレンドシップ・センター創立者 |
2011ワールド・フレンドシップ・センター |
Hibakusha-they are the inspiration for all my peace efforts My heart is
always with Hiroshima |
私の心は いつも
ヒバクシャ
ヒロシマ
とともにあります |
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碑は、高さ約130cm。幅約100cm。厚さ約40cm。黒御影石製。費用約300万円。
除幕式は2011(平成23)年6月12日(バーバラ・レイノルズさんの誕生日に合わせ)平和記念公園南側緑地で行われ、松井一実市長や秋葉忠利前市長たち約100人が出席。長女ジェシカ・レンショウさん(67:米国カリフォルニア州)も参列「母は被爆者のメッセージを世界に広げようとした。これからは私たちが次の世代に伝えていく」と誓ったそうです。 |
バーバラ・レイノルズ(Barbara Reynolds:1915-1990) |
クエーカー教徒。ヒロシマの「語り部」として活動されました。
1951(昭和26)年広島市比治山の当時・原爆傷害調査委員会(ABCC)研究員の夫アール・レイノルズ博士(Earl
Reynolds:人類学者)とともに広島を訪れました。
原爆被害の惨状に胸を痛め、反核・平和運動に取組み、1958(昭和33)年米国水爆実験・太平洋エニウェトク環礁の立入り禁止海域に、夫と一緒にヨットで乗り入れ、抗議しました。
広島市民との交流を深める中で、1962(昭和37)年には被爆者と原爆孤児2人を伴って「ヒロシマ平和巡礼」を敢行。米英両国を巡り、スイス・ジュネーブの軍縮会議でも核実験停止などを訴えました。
さらに1964(昭和39)年「広島・長崎世界平和巡礼」を提唱し、国内外の多くの人びとの協力を得て実現。被爆者や学者、通訳ら40人が加わり、七十五日間をかけて米国、カナダ、英国、フランス、ベルギー、東西ドイツ、ソ連の八ヶ国を平和行脚しました。
1965(昭和40)年には「ヒロシマの世界への窓口」として、ワールド・フレンドシップ・センターを創設。被爆者の援護活動の傍ら、世界各地からセンターを訪れる若者や学者らに、ヒロシマを深く体験するための機会を提供しました。
1969(昭和44)年に帰国した後も、1975年にはオハイオ州ウィルミントン大学に「広島・長崎記念文庫」を開設。この年、広島市はバーバラさんの業績をたたえ特別名誉市民章を贈りました。
1979年カリフォルニア州ロングビーチに移り住んだ後は、ベトナムやカンボジアからの難民の救済に尽くしました。その一方で1982(昭和57)年には広島の女性被爆者とワゴン車で米大陸を横断。行く先々で被爆証言の集いを開らきました。
1990(平成2)年心臓発作のため逝去享年74歳でした。 |
*バーバラ・レイノルズさんに関する資料は中國新聞の記事などを参照しました。 |
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碑の名称に関しては、中國新聞報道では「レイノルズさんの思いを刻む記念碑」と云っていましたが、わたしの頁では(わたし)が勝手に「バーバラ・レイノルズ記念碑」としました。
6月12日除幕式があったことを報道で知りましたが、7月になって訪ねました。
この碑付近には「マルセル・ジュノー博士記念碑」「ノーマン・カズンズ記念碑」も建立されています。 |
この碑が建立された2011年以来何度となく根際を歩いたのですが、横目で見るだけだったのです。
2020年(被爆75年)コロナが流行りだしてきた3月末、観光客も少なくなっていました。久しぶりに撮影しましたので、この頁を更新しました。 |
21.03.25.更新 11.07.25裕・記編集 |