もとやなぎちょう
(旧中島地区) 元柳町・説明板
  中区中島町の平和記念公園(西側)に2008年になって設置された「元柳町・説明板」です。
現在、平和記念公園になっている場所は、被爆前は中島地区とよばれ、幕末から明治・大正にかけて、広島市の中心的繁華街としてにぎわった歴史のある街でした。昭和20(1945)年8月6日(月)午前8寺15分、人類史上初の原子爆弾が米軍により投下され、この地区の住民はもとより、付近で建物疎開作業に従事していた多くの人々が非業の死をとげ、街並みも一瞬のうちに消え去ってしまいました。
元柳町・町名由来
「知新集」に『往古柳の大木土手根にありしゆゑ名つくといふ、元といふハ東柳町後にひらけしゆゑ此町を元といふか』」と記されており、この界隈に柳の木がたくさんあったことから柳町と云われていました。のちに東柳町(現在の南区稲荷町)ができたことから、「元」の字を加えて元柳町と呼ばれるようになりました。
元柳町の様子(大正末期〜昭和初期頃)
元柳町は、本川橋の東詰南の一画、本川左岸に面した人口の少ない小さな町でした。
昭和10(1935)年国勢調査では人口323人
明治14(1881)年6月、国から綿糸紡績工場の払下げをうけるために設立された「広島綿糸紡績株式会社」の仮事務所が元柳町に置かれました。町には繊維関係の問屋が数多くあり、着物に関連した紋屋(家紋を着物に縫い付けたり、染めたりする商い)や桐箱屋(着物を桐箱に入れて保管する)等の商店もありました。
舟(エンジン付きの木造船)の往来で活気溢れていました。また、川岸にはかき船(舟を料亭にしたもの)が係留され、春には川土手(桜土手と呼ばれた)は多くの花見客でにぎわいました。現在も残る雁木(河岸に昇り降りするための階段)は、往時を偲ばせてくれます。
被爆・その後
昭和20(1945)年8月6日の原爆投下により、元柳町は崩壊し、投下時刻に町内にいた住民は全員が死亡しました。当時、元柳町に居住していたことが確認できたのは81人で、8月末までに62人が、その後疎開先で5人の町民が亡くなられたほか、町内の事業所に勤務していた16人が亡くなられたことがわかっています。
※説明板は、ステンレススチール製で縦:60cm、横90cmの大きさです。
今(2008)年8月はじめ平和記念公園敷地内にあった旧中島地区(元柳町、材木町、天神町、中島本町)の街並みを紹介する説明板が設置されたという事を新聞などで知りました。8月6日原爆忌に行こうと思っていましたので、その時撮影しようと考えました。
その中の元柳町はもとやなぎまちと名前だけは知っていましたが、説明板を見ると「もとやなぎちょう」が正しい読み方だったことを知り、また、元柳町には繊維関係の業者が並び、そばを流れる本川の水運などでにぎわっていたということも知りました。元柳町には原爆関連の慰霊碑が建立されていませんのでわたしは調べることもなかったから知らなかったのです。報道で、元住人や遺族らでつくる「柳生(りゅうせい)会」の会員10人ほどが説明板の設置に立ち会ったということも知りました。
08.12.30更新   08.12.15裕・記編集

08.1018.撮影
広島市中区中島町1 平和記念公園    (西側:国際会議場の西南方向)

08.08.06.撮影

08.08.06.撮影
説明板全体 本川橋東詰南側に設置、向こう側に写っているのが本川橋
和洋折衷の2階建ての広島銀行本店、後の森永製菓(1908年=明治41年頃) 広島銀行提供:広島県文書館所蔵
夜桜として有名であった本川土手の桜並木(撮影時期不詳) 広島市公文書館提供
川岸には雁木があり、水運が栄えた元柳町(1937年=昭和12年頃) 西明子氏提供

12.08.01.説明板撮影
平和記念公園(周辺)に設置の各種説明板
1 名勝・平和記念公園(説明板)
2 平和記念公園(原爆で失われた街中島地区)
3 爆心地・原爆被災説明板
4 猿楽町通り周辺・原爆被災説明板
5 広島県産業奨励館・原爆被災説明板
6 元安橋・原爆被災説明板
7 燃料会館・原爆被災説明板
8 中島地区・原爆被災説明板
17 本川国民学校・原爆被災説明板
9 元柳町・説明板
10 材木町・説明板
11 天神町・説明板
12 中島本町・説明板
13 原爆ドーム・説明板
14 原爆供養塔説明板(旧町界と町名・図)
15 中島本町被爆復元地図:板
16 中島勧商場跡説明碑
 



「平和記念公園」編



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