山中女遺族寄付の階段
  中区大手町の平和記念公園に建立されている“動員学徒慰霊塔”の後側に設置されている二つの階段を取り上げています。
※二箇所の階段は、山中高女の娘さんを喪った石田勧さんが寄付され造られた階段のようです。
*2021年暮になり久しぶりにこの階段を利用した時、手摺が設置されたことに気が付き撮影しました。
「寄付者広島市西十日市町 山中女遺族石田勧」
石田さんがこの階段(の工事費)を寄付された年月日は名板に記述がありませんでしたのでわかりませんが、1965(昭和40)年4月1日西十日市町は、旧町名の広瀬元町、北榎町、西九軒町、錦町などを広島市が町名変更し新たにできた町名ですので、
少なくとも1965(昭和40)年以降で、1980(昭和55)年政令都市になり区政が敷かれる前に寄付された階段ということだけはわかりますが。
原爆ドームをみて動員学徒慰霊塔に最短で行こうとする時によく利用する6段ほどのコンクリート製の階段です。
東西の2ヶ所に設置されています。何の変哲もない普通の階段なので通るだけだったのですが、よくみると黒御影石製の名板が埋め込まれていました、近づいてみると山中高女遺族の石田勧さんが寄付された事が判りました。
亡くされた娘さんへの石田さんの想いが深いものであるように感じましたので、撮影し頁に編集しました。
国泰寺町1丁目に建立されている「殉國學徒之碑 廣島女子高等師範學校・同附属山中高等女學校職員生徒慰霊碑」(1952年建立)によると教官4名、生徒382名の方々が原爆の犠牲になっておられることがわかります。
お袋が(財団法人時代の)山中高等女学校の卒業者なのです。1945(昭和20)年4月山中高女はその職員・生徒が「広島女子高等師範学校附属山中高等女学校」に引き継がれ8月6日原爆により校舎が焼失しています。
2021年12月この階段北側に出来た公衆トイレを利用してから動員学徒慰霊塔の方に行こうとこの階段を利用したのです。わずか数段の階段を降りる時にも手摺が欲しい歳になっているわたしは、やれやれと手摺を持った時、以前はこの手摺はなかったなと思ったのです。
この頁を編集した2009年当時は、山中高女卒業で被爆当時32歳だったお袋は健在だったのです。
階段を寄付された石田さんがこの手摺も寄贈されたことは年齢的に考えにくく、広島市が取り付けたのでしょうが、この階段に注目する人はほとんどいないであろうとも、何かの縁だと考え、頁を編集していましたので、今回も更新したのです。
21.12.13.更新   09.02.26裕・記編集

09.01.09.撮影
広島市中区大手町1-10 平和記念公園  (大手町地区・動員学徒慰霊塔後側)



















西





09.01.09.撮影

09.01.09.撮影
階段に手摺が取り付けられました

21.12.09.撮影
(東側の階段)

21.12.09.撮影
(西側の階段)
 
(階段位置図)



「平和記念公園」編



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広島女子高等師範学校・同附属山中高等女学校職員生徒慰霊碑
山中高等女學校址・碑
(動員学徒慰霊塔後ろ)山中高女遺族寄付の階段
(動員学徒慰霊塔銘板)広島市女遺族寄付の銘板・石材


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