猿楽町復元戸別地図
  「猿楽町通り周辺・原爆被災説明板」が原爆ドーム東南側植込みの中に設置されています。
原爆被災説明板には戦前の広島県産業奨励館(原爆ドーム)が位置していた猿楽町の地図があります。復元戸別地図作成・監修 矢倉会(爆心地猿楽町周辺生存者の会)によって再現された図面です。
この頁ではその猿楽町復元戸別地図に焦点をあてて編集しました。
広島原爆戦災誌によると、
『被爆直前の猿楽町は世帯数:260戸、住民数:1055人、町内会長:岩崎永助 とあり、
原爆炸裂時、家屋被害全壊:100%、人的被害即死者:100%』
とあります。 
(さるがく)
猿楽;申楽:
軽業・奇術や滑稽な物まねなどの演芸。
奈良時代に唐から伝来した散楽(さんがく)を母胎につくり出されたものです。
鎌倉時代頃からこれを職業とする者が各地の神社に隷属して祭礼などに興行し、座を結んで一般庶民にも愛好されました。
室町時代になると、田楽や曲舞(くせまい)などの要素もとり入れ、観阿弥・世阿弥父子により能楽として大成されました。
(広島の)
   猿楽町
知新集によると、町名の由来はもと能役者、猿楽師が多く居住していたからだそうです。
江戸期から1965(昭和40)年まで使われていましたが、
町名変更で紙屋町1丁目、紙屋町2丁目、大手町1丁目になってしまいました。
住居を表示する制度を確立することにより、市民生活の便宜を向上させ、もって公共福祉の増進に資するため、1962(昭和37)年に「住居表示に関する法律」が制定されました。
広島市では、1965(昭和40)年から、順次、住居表示を実施しているということで、猿楽町の名前は消えました。
2006年猿楽町通り周辺・原爆被災説明板のこの猿楽町復元戸別地図に焦点を当てた頁を編集しました。
わたしは、広島ぶらり散歩「被爆した建物等」編という頁を作成しているのですが、広島平和記念資料館発行「ヒロシマの被爆建造物は語る」をみていると広島県産業奨励館噴水跡(爆心地から130m)とあったのです。
いままで広島県産業奨励館(原爆ドーム:爆心地から160m)と一対のものとして考えていたわたしの思い違いに気がつき2007年この頁を更新編集しました。
2006年この頁を編集しましたが、拡大図を現在の原爆ドームが位置する西側の図面の拡大しか編集していなかったので、原爆被災説明板を再編集した今回、中央部、東側部分の拡大図も加えこの頁を再編集しました。
14.07.27再編集    07.05.27更新   06.02.21裕・編集
復元戸別地図作成・監修 矢倉会(爆心地猿楽町周辺生存者の会)
下側(北側)が市内電車通り  中央(原爆ドームから西に伸びている道沿いに)猿楽町がありました。
(復元図の西側部分)
(復元図の中央部分)
(復元図の東側部分)



「原爆被災説明板一覧」編


原爆ドーム



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猿楽町通り周辺原爆被災説明板
  (猿楽町通り周辺)復元戸別地図
    (復元図関連頁)
広島県産業奨励館・噴水跡
鳥居は廣島護國神社のもの
西蓮寺の被爆した地蔵尊



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