(三田村)慰靈碑

  安佐北区白木町三田の三田小学校正門根際に建立されている「旧三田村慰霊碑」です。
高田郡三田村には、かつて忠魂碑が建立されていましたが、戦後まもないころに撤去されたそうです。
1956(昭和31)年、三田村が合併で白木町になることから遺族の心情を汲んで三田村としての慰霊碑を建立したようです。
碑の前の1995(平成7)年建立の「安らかに」という戦没者芳名板には、
『日清戦争4名。北清事変3名。日露戦争8名。シベリア出兵2名。太平洋戦争135名。学徒動員22名。』のお名前が刻まれています。
*  広島市の(平成27年2月の)資料では、
『日清戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者は173人、うち原爆犠牲者は動員学徒23人、軍人2人の25人。』と云っていますが。
正面: 慰靈碑
    文部大臣灘尾弘吉書
 裏面: 昭和三十一年九月二十八日
    髙田郡三田村建之 
この石碑は、1894~1895(明治27~明治28)年に日清戦争から1941~1945(昭和16~昭和20)年の太平洋戦争まで、三田村から戦争に参加して亡くなられた人々と、勤労学徒として動員され原子爆弾で亡くなられた人々のご冥福をお祈りするために、1856(昭和31)年9月に三田村によって建てられたものです。
この石碑は、日本が歩んだこれまでの歴史における一つの事実を物語っています。この事実をもとに当時の社会の様子や歴史を学習し、平和の大切さについて考えましょう。

       1992(平成4)年6月広島市教育委員会
1889(明治22)年4月1日町村制の施行で、三田村は単独村制。
1956(昭和31)年9月30日井原村+志屋村+高南村+三田村=白木町が発足。
1973(昭和48)年10月22日高田郡白木町は広島市に編入。
1980(昭和55)年4月1日政令都市に移行。安佐北区白木町となりました。
白木町になる前の駆け込みでこの慰霊碑が建立されたような日付になっています。
灘尾弘吉(1899-1994):文部大臣1956(昭和31)年12月25日~1957(昭和32)年7月10日。
資料でこの三田村慰霊碑を知り地図を見てJR芸備線中三田駅から歩けばすぐだなとは思っていましたが、いままで訪ねることはなかったのです。
今(2015)年被爆70年ですので、(女房運転の車で)訪ねました。
志和口の方から広島に向かって県道37号を行きましたので、”安芸三田郵便局”を目標建物としてとして見落とさないようにしましたので、この三田小学校を通り過ぎることもなくたどり着きました。車の中からですが郵便局を見ていて、丸ポストをみつけるという副産物もありました。
15.11.19.裕・記編集

15.11.16.撮影
広島市安佐北区白木町三田2649 (三田小学校正門根際)

15.11.16.撮影

15.11.16.撮影
教育委員会の説明板(上記)が設置されています

15.11.16.撮影

15.11.16.撮影

15.11.16.撮影
「安らかに」 日清戦争から太平洋戦争までの戦没者 並 学徒動員犠牲者の芳名 
『日清戦争4名。北清事変3名。日露戦争8名。シベリア出兵2名。太平洋戦争135名。学徒動員22名。』
                  平成7(1995)年10月30日三田地区遺族会

15.11.16.撮影

15.11.16.撮影
学校校内ではなく正門根際に建立されていますので誰もがいつでも参拝できます



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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三田村慰霊碑
(安芸三田郵便局)丸型ポスト
 


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