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佐伯区湯来町麦谷に開校している広島市立湯来東小学校です。
※学校のweb siteの2015年学校長あいさつによると
『新入生4名を迎え、全校児童27名で平成27年度の湯来東小学校の教育活動がスタートしました。』とありました。 |
学校前に「水内村慰霊碑」が建立されているということで訪ねたのです。
慰霊碑はすぐにわかり、学校(校舎)の方を見るとわが町の中野東小学校に比べても、見劣りしない大きな(広い)規模の学校だなと思ったのです。
玄関横に丸型ポストがあり撮影しようとして近づいた時、垂直ブレースで耐震補強がされていることも知りました。
土曜でしたので、児童や先生の姿を見なかったので、帰宅後NET検索で学校のweb siteを見ました。 |
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湯来東小学校略沿革 |
2012年度学校便覧を参照しました |
1875 |
明治8年 |
(後の水内村の)和田村、麦谷村、下村の三村にそれぞれ小学校設立 |
1881 |
明治14年4月 |
下村に津伏小学校を増設 |
1884 |
明治17年4月 |
麦谷村に皆草小学校を増設 |
1896 |
明治29年 |
皆草小学校と堂原小学校を統合し、水内尋常小学校と改称
大塚小学校と津伏小学校を統合し、水内下尋常小学校と改称 |
1941 |
昭和16年4月 |
国民学校令により、和田、水内、水内下国民学校と改称 |
1943 |
昭和18年 |
現在地に、水内国民学校校舎落成 |
1947 |
昭和22年4月 |
学制改革で、水内村立和田小学校、水内小学校、水内下小学校と改称 |
1949 |
昭和24年4月 |
水内村立和田小学校を水内村立水内上小学校と改称 |
1956 |
昭和31年9月 |
上水内村、水内村、砂谷村が合併して湯来町となり、
それぞれ湯来町立小学校となる |
1968 |
昭和43年4月 |
水内上小学校、水内小学校、水内下小学校三校が名目統合し、湯来町立水内小学校
水内上小は上教場、水内下小は下教場と呼び、今まで通り三校で教育 |
1969 |
昭和44年9月 |
現校舎落成。【竣工:1968年旧基準RC2建、面積1,322㎡。H26年耐震補強済】
上下教場共に実質統合し、湯来町立湯来東小学校と改称 |
1990 |
平成2年 |
屋内運動場竣工、新基準。RC造、面積886㎡。 |
2005 |
平成17年4月 |
佐伯郡湯来町が広島市へ合併により、広島市立湯来東小学校と改称 |
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1889(明治22)年4月1日町村制の施行時、
和田村+麦谷(むぎたに)村+下(しも)村=水内(みのち)村となりました。
1956(昭和31)年9月30日砂谷(さごたに)村+水内村+上水内村=湯来(ゆき)町が発足。
2005(平成17)年4月25日湯来町が広島市に編入、佐伯区湯来町になりました。 |
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2012年 |
1年8名、2年5名、3年6名+4年6名、5年4名+6年5名=全校生34名 (+は複式学級) |
2013年 |
新1年制4名を迎え、全校生30名 |
2014年 |
新入生3名を迎え、今年度から1年生と2年生も複式学級となる。
これで完全複式学級になりました。 |
2015年 |
新入生4名を迎えて、全校生27名。 |
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2015年交流ウォーク先輩の増田先生が、湯来町へは若いころ研修で行って以来行っているから道案内はできると、湯来町に建立されている慰霊碑を巡ってみようと云って下さったのです。 |
今回の湯来町での“原爆関連の慰霊碑”最後で四番目になるのが、湯来東小学校前に建立の「水内村慰霊碑」でした。碑はすぐわかり撮影しましたが、学校を見ると広い運動場を持つ大きな学校だな~と増田先生に話しました。
増田先生は以前大規模校であった宇品小学校などの校長先生をされたこともあったのでそう話したのです。
帰宅後web siteをみると現在完全複式学級となり全児童27名と小規模校になっているようでしたが、統合して現在の校舎ができた1969(昭和44)年には大規模校であったのだろうなと、この頁を編集しながら思っています。
広島市の「市立学校施設の耐震化の状況について」という資料で学校の規模などがわかりましたので、追記修正しました。 |
15.12.20.更新 15.12.09.裕・記編集 |