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中区中島町の本川沿い緑地に建立されている「広島市商業・造船工業学校慰霊碑」です。 |
材木町誓願寺付近(爆心地から≒500m)の建物疎開作業に出動していた市立造船工業学校の1年生195人、職員5人(作業中に気分が悪くなり病院に行った1人を除き)全員が亡くなったと聞きます。
また、原爆による犠牲者は、他の動員先や登校中の者を含め、270人にもなったそうで、その方々の慰霊碑です。 |
建立年月日:1963(昭和38)年8月6日
建立者:広島市商同窓会造船工業学校遺族
碑形状:御影石(自然石)高さ≒2m、幅≒3.5m |
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晴天の霹靂とはまさにこのことであった。昭和20(1945)年8月6日午前8時15分われらの郷土広島は、ただの一発の原子爆弾によってこの世ながらの地獄を現出し一瞬にして壊滅した。
われらが母校広島市商は当時造船工業に転換を余儀なくされていたのであるが、当日学徒動員市内建物疎開作業に出動中の生徒270名付添職員3名もまた、全滅の悲運に遭った。
われらは年少の諸君の清純熱烈な愛国の至情に想いを至し、可憐悲痛全くいうべき言葉を知らない。われらここに殉難生徒職員各位の諸霊の冥福を祈り、かくの如き悲劇の再び人間の手によってくり返さしめざることを誓うとともに併せて今次大戦を通じて戦列に参加し奮戦苦闘武運拙くも散華して護国の鬼と化した多数の旧市商同窓生各位の英霊をも弔うべくこの碑を建立し、われらの微衷を永く後世に伝えんとするものである。 |
昭和38(1963)年8月6日 広島市商同窓会・造船学校遺族
広島市商業学校長 田中浩造撰文 |
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2000年に撮影してこの頁を編集しました。
碑文を読んで、1921(大正10)年4月1日開校の広島市商業学校が、国策により1944(昭和19)年3月20日(広島)市造船工業学校と文系から理系校になっていたことを知りました。 |
2002年原爆忌に訪ねた時、慰霊碑の前で慰霊式典が行われていました。 |
2015年久しぶりに撮影しましたので、この頁を再編集しました。 |
15.03.03.再編集 00.11.30裕・編集 |