県立広島第ニ中学校慰霊碑

  中区中島町の本川沿い緑地に建立されている「県立広島第ニ中学校慰霊碑」です。
広島県立広島第二中学校の職員・生徒は、中島本町(爆心地から≒600m)で、建物疎開作業に従事中に被爆し、ほとんどの方々が即死だったそうです。
戦災と原爆で亡くなった広島二中の職員7柱・生徒343柱・事務員1柱(※碑文によると352名)を慰霊するために建てられたものだそうです。
建立年月日:1961(昭和36)年8月6日  
建立者:広島県立広島第二中学校戦災死者遺族委員会
形状など:自然石
        高さ:≒1m、幅≒4M
芸陽観音同窓会の資料によると1999(平成11)年11月再調査によると
『教職員8名、1年生321名、2年生9名、3年生2名、4年生9名、5年生3名で、計352名』だそうですが、ほかに戦後被爆が原因で亡くなった方々は数十名に及ぶと思われるとのことです。
広島県立広島第二中学校は、1922(大正11)年4月1日開校。翌(大正12)年より(現在の観音小学校の地)観音町に移転したそうです。戦後、広島県芸陽高等学校と改称、現在は広島県立観音高等学校となっています。
ここで取り上げた戦災や原爆での死没者慰霊碑の名称を広島市の資料では「広島二中原爆慰霊碑」や「広島県立第二中学校慰霊碑」などとしています。
わたしのこの頁では、〔県立広島第二中学校慰霊碑」としていますが、「広島二中原爆慰霊碑」としている市の資料のようにした方がいいのかもしれませんが。
昭和36年=1961年

























































簿
















歿



















00.11.23.撮影


































追悼・歌碑(慰霊碑右側)
    元県立広島二中校長
         古田貞衛作
     -いさ
わからないことを尋ねられたり、答えをためらったりするときに発する語。さあ。
     -いさお(勲・功)
事をうまくなしえた名誉。手柄。
     -歌碑の裏面-
なぐさめの言葉しらねば
ただ泣かむながおもかげ
といさおしのびて
元縣立廣島二中校長 古田貞衛
嗚呼 昭和20(1945)年8月6日学徒動員作業中戦災並びに原爆により教官七名生徒三百四十三名平和の礎となる。
   昭和28(1953) 年8月6日 
廣島県立第二中学校遺族一同建之
2000年に撮影してこの頁を編集しました。
1961(昭和36)年正面の大きな慰霊碑が建立された以前に、(いまは慰霊碑の(北側横にある)追悼・歌碑が1953年に建立されていたことを碑文などをみて知りました。
2005年に碑銘を「県立広島第二中学校慰霊碑」とました
2015年久しぶりに撮影しましたので、この頁を再編集しました。
15.03.04.再編集    05.04.30碑銘訂正   00.11.30裕・編集

00.11.23.撮影
広島市中区中島町1 本川沿い緑地

02.08.06.撮影
2002年原爆忌訪ねた時、慰霊式典が行われていました

05.02.02.撮影

05.02.02.撮影
2005年2月訪ねたときは前日の雪が残っていました

15.02.08.撮影

15.02.08.撮影
追悼・歌碑(表面)歌は上記 追悼・歌碑(裏面)碑文は上記

15.02.08.撮影
慰霊碑の後側が本川(旧太田川)、川越しに中国新聞社社屋がみえます

15.02.08.撮影

15.02.08.撮影
先生、第一学年:第一学級〜第六学級、第二学年、第三学年、、第四学年、、第五学年、事務員

15.02.08.撮影
敬称は略しています



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
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