(広島文理科大・広島高等師範学校)興南寮跡・碑

  中区大手町の元安川緑地に建立されている「興南寮跡・碑」です。
※この碑は広島文理科大・広島高等師範学校の寮跡碑なのですが、
  南方特別留学生4名の方々が原爆で亡くなっていることから原爆関連の慰霊碑の意味も含んだ碑として(わたしは)取り上げています。
この地は、かって興南寮であった。興南寮は、1944(昭和19)年〜1945(昭和20)年にかけ、広島大の前身である広島文理科大や広島高等師範学校に在籍した東南アジアの南方特別留学生が住んでいた宿舎であったが、1945(昭和20)年8月6日、原子爆弾の閃光を浴び焼失した。昭和19(1944)年9月20日撮影
建立日:1976(昭和51)年4月20日。1995(平成7)年3月31日再建されたそうです。
建立者:興南寮跡記念施設建設委員会  代表世話人 花岡俊男
「南方特別留学生」とは
東南アジアの日本軍占領地で軍政当局と現地の人の間に入って指導的立場となる人材を養成する、「大東亜共栄圏」の占領政策の一環として生まれたものでした。1943(昭和18)年〜1944年にかけてマライ、スマトラ、ジャワ、ビルマ、フィリピンなどから205名が集められました。 1944(昭和19)年4月に広島高等師範学校には20名が入学しました。
1945(昭和20)年4月配置換えがあり、9名が広島文理科大学の「特設学級」で勉学していました。そのうちの4人が原爆の犠牲になったそうです。 
資料:西尾隆昌氏著広島のいしぶみはみつめるを参考にしました
2016年4月13日中國新聞報道で『広島で被爆した元南方特別留学生で最後の存命者だった(ペンギラン)ユソフ氏が死去された』ことを知りました。
記事によると
『広島で被爆した元南方特別留学生でブルネイ元首相のペンギラン・ユソフ氏が4月11日午前自宅で亡くなったことが(ブルネイ大使館からの情報で)わかった。享年94歳でした。
ユソフ氏は、1944(昭和19)年南方徳特別留学生として来日、1945(昭和20)年広島文理科大学に進学。同(昭和20)年8月6日広島文理科大教室(爆心地から≒1,500m)で授業中に被爆。被爆直後には校庭で野宿しながら被爆者の救護に当たった。
1966年英国統治下のブルネイで首相に就任。〔1984年ブルネイ(英国から)独立、国連加盟。〕2001(平成13)年~2002(平成14)年駐日大使を務める。広島大学は2013(平成25)年名誉博士号を授与。』という内容でした。
わたしは、2000年にはじめて「興南寮跡碑」を撮影しました。その時この碑を留学生であった人たち(被爆存命者5名)が訪ねたことを示す4枚の立板に目が行ったのです。
その中にブルネイ王国前首相だった方の立板があったことを思い出したので、中國新聞の記事を参照し、追記しました。
2000年資料をみて訪ね撮影してこの頁を編集しました。
2007年8月6日(月)、あの日の万分の一さえ想像することは出来ないわたしですが今(2007)年になってはじめて光(佐伯区の)禅寺のニック・ユソフさんの墓標前で頭を垂れながら8月6日には久しぶりに興南寮跡を訪ねてみようと思っていたのです。
2015年久しぶりに訪ね撮影しましたので、この頁を再編集しました。
2016年中國新聞で、南方特別留学生で最後の存命者であったペンギラン・ユソフ氏が亡くなったことを知りましたので、ご冥福をお祈りしつつ、この頁を更新しました。
16.04.13.更新   15.03.17.再編集   00.11.30裕・編集
   関連頁:(光禅寺)南方特別留学生墓碑

00.11.11撮影
広島市中区大手町4‐8 元安川緑地

00.11.11撮影

07.08.06撮影
(裏面) 興南寮跡記念施設建設委員会代表世話人 花岡俊男

07.08.06撮影
原爆忌の8月6日(あの日と同じ月曜日)頭を垂れた後撮影しました

07.08.06撮影
元安川対岸(西側)から興南寮があった付近をみました

15.02.26.撮影
(碑の後側にみえる校舎は)広島市立大手町商業高等学校です

15.02.26.撮影

15.02.26.撮影



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編
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