日本發送電株式会社中國支店原爆殉職者慰霊碑

  中区大手町の元安川緑地に建立されている「日本發送電株式会社中國支店原爆殉職者慰霊碑」です。
碑表: 原爆殉職者 慰霊碑      日本發送電株式會社中國支店
碑裏: 昭和28(1953)年4月  日本發送電株式會社  総裁 小坂順造
資料によると、『日本発送電株式会社中国支店は、爆心地より≒900mにあったことで、1945(昭和20)年8月6日被爆当日出勤者117人のうち、1年後の生存者わづか2人だったそうで、翌日(8月7日)支店のあった場所には金庫がひとつポツンとあり、熱灰の中に白骨が散らばっていたそうです。
支店殉職者での殉職者の他に出勤途上の死亡者、松江火力発電所から出張していて殉職者を加えて169人の方々を合祀している
』そうです。
2000年碑をみて恥ずかしいことに、慰霊碑に刻まれている發送電がわたしは読めなかったのです。
日本の電気事業のこと少し調べてそうか発の旧字だったのかとわかったのです。
電気事業の歴史
1932 昭和7年 電力連盟発足(五大電力の電力カルテル)
1939 昭和14年 日本発送電 設立
1942 昭和17年 9配電会社設立、我が国の電気事業1発送電・9配電会社体制となる
1951 昭和26年 日本発送電・9配電会社解散し、9電力会社発足
日本発送電について
1939(昭和14)年、前(昭和13)年に成立した電力管理法および日本発送電株式会社法に基づき設立されました。日中戦争下の戦時体制への傾斜を背景に、電力需給の国家的統制を目的として電源開発の独占権を与えられたものです。
第二次世界大戦後、日本発送電および九配電会社は過度経済力集中排除法の適用を受け(1948年)、電気事業の「民主化」が図られました。
1950(昭和25)年にはポツダム政令により電気事業再編成令が公布され、1951(昭和26)年5月、東京電力以下の民間九電力会社の設立をみて、日本発送電と九配電会社はともに解散しました。
日本発送電の最終資本金は30億円。発送電設備は民間九電力会社に継承されました。
小坂順造(こさか じゅんぞう:1881-1960)
実業家、政治家。信越化学工業、東信電気、長野電灯創業者。東京高等商業学校卒。
1904(明治37)年日本銀行入行。1911(明治44)年信濃毎日新聞社長。1912年衆議院議員、1932(大正7)年貴族院議員。1923(大正12)年長野電灯社長。1950(昭和25)年日本発送電総裁、1954(昭和29)年電源開発総裁。1960(昭和35)年勲一等旭日大綬章。
元外務大臣・小坂善太郎は長男、元運輸大臣・小坂徳三郎は三男。
この碑が建立されている元安川河畔はよくぶらり散歩するのですが、いつも横目にみるだけでしたが、今(2007)年8月6日平和記念式典後に立ち寄り頭を垂れ、献花で華やいだ碑を撮影しました。
また碑裏面に刻まれている、総裁小坂順造氏の事チト調べました。
2015年久しぶりに撮影し、この頁を再編集しました。
時は移り、新規事業者の参入を促すのが目的ということで、発送電分離が叫ばれ、方向は形態は戦前とは違っているのでしょうが戦前の一時期のように発送電分離となるようですね。
18.03.01.更新  15.03.18.再編集   00.11.30裕・編集
    関連頁:中国配電職員弔魂塔   (被爆建物)旧・中国配電南部変電所

00.11.11.撮影
広島市中区大手町3‐14 元安川緑地

00.11.11.撮影

07.08.06.撮影
お花が飾られ、浄土真宗・盆灯篭が慰霊碑を囲んでいた原爆忌8月6日でした

08.08.16.撮影

15.02.26.撮影
被爆70年に訪ね頭を垂れました

15.02.26.撮影

15.02.26.撮影

15.02.26.撮影

17.03.30.撮影

17.03.30.撮影



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編
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