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中区大手町の元安川緑地帯に建立されている「廣島縣農業會原爆物故者慰靈碑」です。 |
現在、「広島県農業会原爆物故者慰霊碑」が建立されている場所には、広島県農業会広島支所がありました。
元広島県農工銀行から譲り受けた建物で、国泰寺町に新事務所ができて本所(広島県農業会)事務所が移転した*後、被爆時(1945年8月6日)は広島支所として使用されていたそうです。
(元は銀行建物だったので)6本の円柱が特徴的な4階建ての煉瓦建築だったそうです。
しかし、原爆によって完全に破壊され、外壁の一部が廃墟として残るのみで、厚い煉瓦造だったことで、熱気が冷めず(手がつけられず)、1週間ぐらいたってから煉瓦を割り、その下にある遺骨を収容し、当日出勤していた支所長をはじめ、職員は全員犠牲となったことがわかったそうです。 |
昭和20(1945)年8月6日午前8時15分広島市上空に炸裂した一発の原子爆弾により全市は一瞬にして阿鼻叫喚の巷と化す猛火市井を襲って廃墟となり広島県農業会役職員80余名尊き犠牲となる。ここに広島支所の在りしゆかりの地に近く碑を建立して犠牲者の霊を祀る.。 昭和46(1971)年8月6日 |
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原爆物故者:83柱
建立日:1971(昭和46)年8月6日
碑形状:黒御影石。高さ:1m,、幅:2m |
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建立者:
広島県農業協同組合中央会
広島県信用農業協同組合連合会
広島県経済農業協同組合連合会
広島県同栄社共済農業協同組合連合会
広島県厚生農業協同組合連合会 |
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本所(広島県農業会)は、1942(昭和17)年9月(現在も同じ場所の)広島市役所南側(現在国道2号線辺り)に木造2階建ての(本所の)事務所が建設され、毎日200人余りの職員が勤務し、1945(昭和20)年8月6日被爆後判明しただけで職員71人が死亡、重傷者72人を数え、その後も多数の犠牲者が続いたそうです。
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広島県農業会の資料は、広島市の公開資料を参考にしました。 |
2000年広島県農業会原爆物故者慰霊碑の前で頭を垂れた後、撮影して、この頁を編集しました。 |
2014年久しぶりに撮影していました。2015年のいまになりましたが、この頁を再編集しました。 |
15.03.06.再編集 00.11.30裕・編集 |