広島瓦斯ひろしまガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑
  中区大手町の元安川緑地帯に建立されている「広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑」です。
この地(現在の大手町第一公園附近)に、1922(大正11)年9月に広島電軌と合併してガス事業と電鉄事業を兼営していた広島瓦斯電軌の本社ビルがRC(鉄筋コンクリート)造3階建・地下1階として建てられましたが、1942(昭和17)年4月に戦時経済統制で広島瓦斯と広島電鉄に分離しました。
1945(昭和20)年8月6日南西(爆心地より反対側)を残し崩壊し全焼しました。
                   爆心地より≒210m
出社していた約30名の職員が亡くなり、奇跡的に脱出した男性3名、女性2名の方々もまもなく死亡され、当時の山口社長は黒焦げの歯で本人確認ができたという悲惨な状況であった*そうです。
他広島市の資料によると、
広島瓦斯(株)の義勇隊隊員34名は天神町・木挽町の建物疎開作業出動中で全員被爆死されました。
建物内にいた35名は数名を除き即死、生き延びた方々もその後亡くなり全員死亡されました。
当日(8月6日)中国地方のガス事業統合会議に出席されていた他社の役員10名も死亡されたそうです。
追憶之碑建立: 1967(昭和42)年8月2日
碑の形状など: 黒御影石造り。直径≒1m、高さ≒2mの円筒形の台。台上に5基の瓦斯灯がともっています。
2000年に資料をみて元安川左岸に建立されているこの広島瓦斯(株)原爆犠牲者追憶之碑を訪ね頭を垂れたあと撮影しこの頁を編集しました。
2007年原爆忌8月6日、(通称)平和記念式典後立ち寄ってみたのです。
『原爆投下後の残り火を燃やし続けている福岡県星野村の「平和の火」を譲り受けて、広島瓦斯(株)原爆犠牲者追憶之碑のガス灯にともす・・・』という事をラジオを聞いていて知ったのです。
星野村の火と、平和記念公園で採火した「平和の灯」を合わせ、広島ガス・深山英樹社長(65)がガス灯に点火し、「亡くなった社員をはじめ多くの原爆犠牲者のため、広島の企業として恒久平和への祈りを込めて火をともし続けたい」と誓いを新たに述べられた。』という事を帰宅後知りました。
この碑の周りの状況がわかる画像がありませんでしたので撮影していました。
2014年になりましたが画像を加え資料を見直し追記再編集しました。
20.0107.更新  14.0807.再編集  00.11.30裕・記編集
   関連頁:(星野村の平和の火も灯された)(NHK広島放送局) ヒロシマの火 平和への灯

00.11.11撮影
広島市中区大手町2‐12 元安川緑地帯
広島瓦斯(株)跡原爆被災説明板 と 広島瓦斯(株)原爆犠牲者追憶之碑

07.08.06撮影
慰霊碑の前に献火台が段取りされていました

07.08.06撮影
星野村の平和の火
  福岡県八女郡星野村(現・八女市星野)の平和の火は、同村から広島県に出征していた故山本達雄さん(1915-2004)が持ち帰った。山本さんは米軍による原爆投下(1945年8月6日)直後に救護のため広島市に入り、被爆。市街地で書店を営んでいた叔父の消息も捜したが見つからず、9月に帰郷する際、書店の焼け跡でくすぶる火を携帯カイロに移し、叔父の遺骨代わりに持ち帰った。
星野村は1990(平成2)年に条例を制定して「平和の火」を管理しており、上野恩賜公園(東京)などに分火しているそうで、今回の広島ガスへの分火は14箇所目となるそうです。
*2010(平成22)年2月1日八女郡星野村は( 黒木町・立花町・矢部村とともに)八女市に編入され消滅しました。現在は八女市星野となっています。11.11.20追記

07.08.06撮影
福岡県星野村「平和の火」と平和記念公園「平和の灯」

09.02.02.撮影
(画像左奥が大手町第一公園です)

11.12.10.撮影

11.12.10.撮影

15.02.26.撮影
この日は雨模様で薄暗い中、瓦斯燈の明かりがはっきり見えました

19.02.25.撮影
(東側の方から原爆被災説明板と「広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑」をみました)

19.02.25.撮影
(≒東南の方から「広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑」をみました)



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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広島瓦斯(株)原爆被災説明板


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