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中区上幟町の広島女学院中学高等学校グラウンド北側に建立されている 「広島女学院高等女学校職員生徒慰霊碑」です。
※この慰霊碑は、正門入って東側まっすぐの処に移設されました。 |
広島女学院高等女学校1、2年生350人は、雑魚場町(現在の国泰寺町1丁目。爆心地から≒1,200m)で建物疎開作業中に被爆し、大半が死亡したり、重軽傷を負ったそうです。
碑左右に設置の「原子爆弾犠牲者名」石碑には教職員20名、学生・生徒330名のお名前が刻まれています。なお、慰霊碑中の過去帳に記名されてもいるそうです。
(碑裏面に)聖書の一節(下段)を刻んだこの碑は、十字をかたどっているそうです。 |
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当初、東区牛田東の女学院大学構内に建立されたそうですがお参りに来られる方に不便だという事?でこちらに移設されたようですと女学院大学の歴史資料館で伺いました。 |
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1953(昭和28)年に東区牛田東の女学院・大学に建立され、1991(平成3)年にこちら中区上幟町に移設されたそうです。 |
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斃(たお)れる「殪れる」とも書く≒事故などで(急に)死ぬ。殺される。 |
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おじさんの原爆記に出てくる、牛田の女学院に一度も訪ねたことがありませんでしたので、2003年4月東区牛田東の大学のキャンパスを訪ねました、そして5月になってこの慰霊碑を訪ね、撮影してこの頁を編集しました。 |
時は経ちこの慰霊碑が建立されている所に新しい建物の工事が始まり、竣工した処を広電白島線電車通りからみていたのです。
この慰霊碑が粗末に扱われる事はないと思ってはいましたが、移設された処を撮影させていただこうと思いながらなかなか女子学校に足が向かわなかったのです。
2011年になっていましたが、正門横のガードマンボックスのガードマンの方に要件を話、許可を頂き、教えていただいた移設場所に行き頭を垂れ、撮影しました。 |
2015年に訪ね撮影しましたので、この頁を再編集しました。 |
この慰霊碑の作者は誰だろうと思い、台座の後ろをみるとデザイン・岡田竹男と刻まれていました。
また、原爆犠牲者名・石碑の設計者がニ紀会委員・加藤豊と云う事もわかりました。ので追記しました。 |
15.06.03.再編集 03.05.10裕・記編集 |