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中区国泰寺の国泰寺高校に建立されている「広島県立広島第一中学校職員生徒追憶之碑」です。 |
正面: |
追憶之碑 |
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裏面: |
昭和二十年八月六日戦災死職員生徒追憶ノ為三周年日之ヲ建ツ |
昭和20年=1945年 |
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校門を入って南側に、在職在学中原爆による死没者(追憶之碑の後ろに名録碑があります)職員・生徒366名のお名前が刻まれています。
この追憶之碑の建立は、昭和23(1948)年8月6日で、建立者は一中遺族会 によるものです。 |
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1年生287名、2年生2名、3年生55名、4年生6名、5年生1名、計351名。教職員渡辺富市校長以下15名。総計366名が原爆犠牲者となりました。
生徒たちは、夏休み返上で勤労動員に駆り出されていました。
4・5年生は呉の海軍工廠や地御前の兵器工場などへの動員(犠牲者は動員欠席者で自宅被爆)。
3年生は市内の土橋・鶴見橋付近の建物疎開の作業動員と東洋工業などへの勤労動員。
2年生は一部兵器工場への動員とあとは自宅待機組と遅出の動員組に分かれていました(犠牲者は自宅被爆)。
1年生は7時30分学校集合、在籍人員の305名が点呼完了、半数が現在の広島市役所・中区役所付近の建物疎開の後片付け作業に従事、残りの半数は教室で作業の交代待ちのくつろぎの時間帯にあったのです。8時15分米軍が原子爆弾を投下、生き残ったものは305名中たったの18名だけでした。 |
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犠牲者の内訳が違いましたので、国泰寺高校の資料を参考に追記しました。 |
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1948(昭和23)年といえば(まだ占領中で)プレスコードで、「原爆」の文字が使用できなかった時代だったのでしょう、原爆慰霊碑という碑銘ではなく、ただの追憶之碑となっています。
この前は何度となく通ってはいましたが、2003年学校事務室に伺い、碑の前で頭を垂れ、そして撮影させていただきました。
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2006年、2011年にも撮影していました。2011年にた時この碑に移っていたビルが2003年当時と違っていました。
2014年のいまになりましたが、頁を見直し、再編集しました。
2019年旧雑魚場町地区周辺・原爆被災説明板を久しぶりに撮影に来ましたので、この追憶之碑前で頭を垂れましたので撮影していました。 |
20.01.13.更新 14.10.14.再編集 03.05.10裕編集 |