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西区楠木町の崇徳学園に建立されている「崇徳中學校職員生徒原爆死歿者供養塔」です。 |
「(旧制)崇徳中学校職員生徒原爆死没者供養塔」は、資料によると建物疎開作業(八丁堀、白島方面、爆心地から≒800m)などに動員されていた520名(教職員10名 生徒510名)の方々が死亡したそうです。 |
※崇徳学園の資料によると『原子爆弾によって職員・生徒522名が死没し、校舎全壊』とあります。 |
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1926(大正15)年8月竣工の鉄骨造の武道館は、爆心地から≒2,260m。
1939(昭和13)年10月竣工のRC造の講堂は、爆心地から≒2,180m。 |
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広島原爆戦災誌等によると
「(旧制)崇徳中学は、独立鉄道第二大隊(線第13352部隊)が仮兵舎に使用しており約200人が駐屯していました。
原爆が炸裂した1945(昭和20)年8月6日8時15分、運動場で体操中で多くの犠牲者を出しました。
被爆当日、校舎の焼け跡にテントを張り罹災者捜索本部が置かれ北側の大芝堤には救護本部が置かれ避難してくる生徒や一般罹災者の救護が行われた」そうです。 |
2003年崇徳学園を訪ね、撮影してこの頁を編集しました。
当初、崇徳中學校職員生徒原爆死没者供養塔としていましたが、碑に刻まれた文字は「崇徳中學校職員生徒原爆死歿者供養塔」となっていましたのでこの頁の標題を訂正しました。
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漢和辞典で、歿を引くと『1.死ぬ(没のほうが古い用法)』とありました。 |
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2015年久しぶりに立寄り、事務室で供養塔をお参りし、撮影したい旨お願いしました。許可がおり教頭先生(と思われる先生)立会いのもと撮影しましたので、この頁を再編集しました。 |
15.08.20.再編集 03.07.05裕・編集 |