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中区基町の宝ビル北側外壁に設置されている「原爆犠牲米軍人慰霊銘板」です。 |
「被爆死した捕虜も同じ原爆犠牲者である」と地方史研究家で被爆者でもある森重昭氏が建立(設置)されたという慰霊銘板です。
中国憲兵隊司令部に収容されていた10余名の米軍捕虜全員が被爆死したといわれています。 |
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中国憲兵隊司令部に撃墜機の乗務員を含め収容されていた13名の米軍捕虜がいたが全員被爆死したそうです。
他に広島での原爆で、護送中だった米人捕虜23人が死亡したと1945(昭和20)年10月9日、国際赤十字が確認したが、米当局は公表を避けているという資料もありますが? |
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1977(昭和52)年1月7日広島で被爆死した米兵捕虜17人の名前が判明する。
1970(昭和45)年8月6日には、原爆死した米兵捕虜(ローンサム・レディ号の射撃手:ジョン・ロング伍長)及び白系ロシア人2人の氏名が原爆死没者名簿に奉納されたそうです。 |
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碑 銘: |
原爆犠牲米軍人慰霊銘板 |
設置日: |
1998(平成10)年7月29日 |
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太平洋戦争末期、広島県呉市沖で戦艦榛名を攻撃中に撃墜された米軍爆撃機の機長、トーマス・カートライトさん(75)=テキサス州在住=が18日、同僚の慰霊に広島を訪れる。全乗員九人のうち六人は、捕虜として収容された広島で被爆死した。カートライトさんは尋問のため東京へ移送されて無事だった。これまで広島を訪れる気にならなかったが、「平和を真に理解するためには、戦争がどんなもんだったかを知らなくては」と来日をきめた。被爆者らと交流して核兵器廃絶を訴える。
1945年7月28日、カートライトさんが機長をしていたB24爆撃機ロンサムレディーは(沖縄の読谷飛行場から飛び立っち)戦艦・榛名を攻撃中に被弾し、山口県柳井市に墜落した。航空士はパラシュートが開かずに(小屋ケ谷に落下)死亡。射撃手一人が東京に連行され、カートライトさんは墜落の2日後将校尋問のために東京へ移された。残る乗員六人は広島市にあった中国憲兵隊司令部に留置され、8月6日を迎えた。
カートライトさんは退役後、(テキサス州の)大学で教壇に立った。
部下がどんなふうに亡くなったか気がかりで乗員たちの「最後の数日間」について調査したこともある。広島には82年に学会のため一度だけ立ち寄ったが、いたたまれなくなってすぐに立ち去ったという。
今回の来日では、憲兵隊司令部跡にある元米兵捕虜の慰霊板に参拝し、原爆ドームを見学。榛名の元乗組員とも交流する。
「私は原爆で親しい者を失った数少ない米国人の一人。広島の痛みは私の痛みでもある。戦争は破壊と憎しみを、平和は繁栄と幸福をもたらすことを私たちは学んだ。この事実を次世代に伝えたい」と話している。 |
朝日新聞の記事が貼りだしてあります
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米軍投下の原爆によって米国人が亡くなっていたことは以前資料を調べていて少し知ってはいましたが、
英国情報部が米軍人捕虜が廣島に収容されていることを米国に通告していた事を無視しての原爆投下だったとも聞きます、捕虜になった爆撃機の生き残りで、戦後広島を訪れた機長の言葉が記事になっていました。
「戦争は破壊と憎しみを、平和は繁栄と幸福をもたらすことを私たちは学んだ。この事実を次世代に伝えたい」と記事の中にありました。 |
2004年資料をみていてこの銘板を知りましたので撮影しこの頁を編集しました。 |
2006年交流ウォーク時、この銘版の下に旗を挿せる金物があり、花輪が置ける棚があるので、8月6日原爆忌に花輪が置かれ、国旗が飾られるのかもしれないと話が出たのです。(2006年)8月6日11時過ぎに訪ねてみましたが普段と変わりなかったのです。
その時は、国旗が飾られるのは米国の独立記念日(7月4日)かもしれないと思ったのですが。 |
2010年近くに来た時立ち寄ってみると星条旗が設置されていましたので撮影しましたが、銘板は残念なことに経年変化で見づらくなっていました。 |
2015年訪ねた時、隣りの部屋に店が入居し、裏口になっていましたので撮影しました。この頁を再編集しました。 |
15.05.02.再編集 04.06.25裕・記編集 |