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中区基町の広島市青少年センター北側に建立されている「広島・長崎青年交歓記念碑」です。 |
原爆の惨禍をくぐりぬけ生き残った広島・長崎の青年たちは、1949(昭和24)年11月12日広島で交歓会をもち、平和運動の推進を誓い合ったそうです。
1975(昭和50)年、両都市の姉妹都市縁組の促進にアジサイの花束をもって来広した事を後世に伝えるためにこの碑が造られたそうです。らに連帯を強固にするため、この紫陽花(長崎市花)を贈ってきた。そのアジサイがこの碑の周りに植えられています。 |
碑建立: |
1986(昭和61)年9月10日※。由来記建立委員会 |
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(記念碑は、広島市役所旧庁舎の被爆石で造られました) |
由来記建立委員会: |
松本春美、岩田幸男、土井清次郎、佐々木久子、勝丸博行 |
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原爆の惨禍をくぐり抜け、生き残った広島・長崎の青年たちは戦争を否定し、あらゆる核兵器の使用を許さない人道主義の立場を貫いているが、長崎青年団は、昭和五十(1975)年八月五日の平和文化都市提携に先立つ七月十四日さらに連帯を強固にするため、この紫陽花(長崎市花)を贈ってきた。 |
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※ |
1986(昭和61)年9月10日(広島・長崎青年交歓記念碑(1)と道路を挟んで)大手町3丁目平和大通り緑地帯北側に建立されたそうです。
1994(平成6)年8月26日にここ広島市青少年センター北側に移設されています。
この碑の周りには長崎青年団より贈られたという紫陽花(長崎市の花)が植えられています。 |
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資料を見て『広島・長崎青年交歓記念碑 (1)』を撮影に行ったのですが、ここで取り上げた『広島・長崎青年交歓記念碑
(2)』は後日撮影に行ったのです。
この記念碑には被爆した広島市庁舎玄関手摺の御影石が使われています。
碑裏面には「記念碑芳名者」板が埋められています。当時市長の荒木武(1916-1994)広島市長と本島等(1922-2014)長崎市長の名前も刻まれています。 |
永井 隆 (ながいたかし:1908-1951) |
昭和時代の医学者。島根県松江市出身。長崎医科大学(現長崎大学医学部)卒。
母校の物理的療法科部長のとき放射線障害をおう。さらに1945(昭和20)年8月9日(木)11時2分米軍投下の原子爆弾で被爆(爆心地から700mの大学研究室で)するが負傷者を救護。1946(昭和21)年教授。カトリック教徒として原爆廃止を祈り、病床で「長崎の鐘」「この子を残して」などを口述した。
辞世『白ばらの花より香り立つごとくこの身をはなれ昇りゆくらん』 |
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2005年撮影しこの頁を編集しました。 |
2015年久しぶりに撮影しました。この碑の周りが整備されていました。また、広島市民球場も解体されています。
この頁を再編集しました。 |
15.05.14.再編集 05.01.16裕・記編集 |