移動演劇さくら隊原爆殉難碑

  中区中町平和大通り(北側)緑地に建立されている「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」です。
移動演劇さくら隊原爆殉難碑の由来
  広島の移動演劇さくら隊原爆殉難碑は、原爆投下から7年後の1951(昭和26)年8月中国新聞社芸能記者の人達によって「丸山定夫・園井恵子 追慕の碑」として、白いペンキ塗りの質素な木の碑として新川場町のどぶ川のほとりに建立されました。
それから四年後の1955(昭和30)年8月に広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会で、碑の建設が、劇団俳優座の永田靖氏らによって、新劇人へ呼びかけられました。建設に当っては徳川無声(弁士:1894-1971)、八田元夫(演出家:1903-1976)、山本安英(女優:1906-1993)の各氏が奔走し、1959(昭和34)年8月、新制作座、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術劇場の6劇団と「演劇人戦争犠牲者記念会」の協力によって建立されました。
碑の「桜隊」の「桜」が「さくら」と仮名文字で彫られているのは、占領下にあったため漢字の「桜」は使用できなかったからです。
2000(平成12)年8月広島市民劇場
日本移動演劇聯(連)盟という組織は時の内閣情報局の手で戦時体制下の文化政策推進のため結成されたもので1941(昭和16)年大政翼賛会大会議室で結成式を挙行しました。
1945(昭和20)年所属劇団の「劇団ごと地方疎開」ということで聯盟準専属の櫻隊(丸山定夫外14名)は日本移動演劇聯盟中国出張所兼寮の広島市堀川町九十九番地に駐留と決まり、1945(昭和20)年6月22日に着任、8月6日(月)8時15分寮にて被爆。
櫻隊、高山象三(享年21歳8/20)、島木つや子(22歳)、森下彰子(23歳)、羽原京子(推定23歳)、小室喜代(30歳)、園井恵子(31歳8/21)、仲みどり(36歳8/24)、丸山定夫(40歳=隊長、8/16)、笠絅子(41歳=島木の母)の9名の方々が原爆の犠牲になりました。
資料は『江津萩枝さん著「櫻隊全滅」などを参考にしました
碑銘が移動さくら隊と平仮名になっていますが、最初の碑建立が1951(昭和26)年で日本は占領下におかれていたことで、移動演劇櫻隊(移動演劇桜隊)と漢字の櫻(桜)が使用できない状況だったそうです。
1952(昭和27)年4月サンフランシスコ対日講和条約発効で、戦争状態は終結されることになりました。
現在の碑は1955(昭和30)年建立ですが、最初の木碑建立状況からひらがな「さくら」となっているようです。
当時の堀川町99番地(現:中区新天地5 ヤマダ電器が入っているビルの西半分の場所)で被爆、亡くなった劇団員9人をしのび建立されたそうです。
2000年に撮影してこの頁を編集しました。
2010年移動演劇さくら隊原爆殉難碑の前を通った時、桜が咲いていたのです。
今まで何度も通り、2000年には碑を撮影し頁を編集していたのに碑の前の桜の木に気が付かなかったのです。
桜・櫻という漢字が使用できなかった時代に碑を建立した人たちは、(殉職した隊員の人たちの為に)櫻の木を思いを込めて植えたのでは?という事を考え探しもしなかったな〜と、老木になりつつある櫻の幹をみながら、(わたし自身の)迂闊さを思いながら撮影しました。
2014年、2015年周りの状況がわかるようにと少し引いて撮影しました。
15.04.14.更新    06.09.13再編集  00.11.30裕・編集
   関連頁:(丸山定夫さんが亡くなった宮島のお寺)存光寺

00.11.11撮影
広島市中区中町 平和大通り(北側)緑地

06.08.06撮影
2006年は、原爆忌・8月6日平和記念式典後立ち寄ってみました

06.08.06撮影
碑の裏面には亡くなった9名の方々のお名前
碑の側面、1955之建  新協劇団、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術劇場、演劇人戦争犠牲者記念会

10.03.30撮影
移動演劇さくら隊原爆殉難碑前の桜が咲いていました

14.11.18.撮影
殉難碑前の桜は紅葉になってきていました。   広島ドリミネーションの段取りがはじまっているようでした

15.03.21.撮影

15.03.21.撮影
殉難碑を裏側からみました

15.03.21.撮影



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