こうご
庚午・高須地区原爆慰霊碑
  西区庚午北の庚午第1公園に建立されている「庚午・高須地区原爆慰霊碑」です。
庚午・高須地区原爆慰霊碑は、被爆後からここ庚午高須周辺まで逃げてきて亡くなった方々を、一回何十人と火葬したそうで、その方々を含む町民の犠牲者を慰霊するため、庚午北町・高須町町内会によって建立されたそうです。
1946(昭和21)年に建立されたその碑は木製でしたので、1959(昭和34)年の台風で倒れ、その(昭和34)年12月に現在の碑が建立されたそうです。
2010年8月5日、碑建立50周年を迎え、碑の説明板が新たに設置され改修工事が行われました。
広島原爆戦災誌によると
昭和20(1945)年8月6日8時15分から8月14日正午調査の時点で、
『庚午・庚午北町においては町内住居者で20名死亡、181名が行方不明、町内一時滞在者の内29名死亡、135名が行方不明』だったと記述があります。
また『昭和20(1945)年12月の合同慰霊祭を執行した時、草津・庚午地区の町民だけで約700体の霊があった』と記述があります。
原爆慰霊碑原爆慰霊碑の由来     2010(平成22)年8月5日 高須町内会 庚午北町内会
 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月6日、突如人類初の原子爆弾が広島市上空で炸裂、一瞬のうちに十数万人の命を奪い去ると同時に多くの負傷者が出ました。避難する途中この地で力尽き亡くなられた被災者は、地元高須庚午北町住民により荼毘に付され、ここに埋葬されました。
1948(昭和23)年遺骨の発掘が行なわれ、同年8月6日192柱が平和記念公園内の原爆供養塔へ納骨されました。
1959(昭和34)年恒久平和の願いを託して、書家・堀川岳陽先生揮毫による慰霊碑が高須、庚午北町民の浄財により建立されました。 
建立50周年、慰霊碑改修工事にあたり碑の由来を記すとともに、往時を偲び改めてあまたの原爆犠牲者に哀悼の意を表します。
2005年訪ねましたので、この頁を編集しました。
昭和34(1959)年12月建立と聞きますが、碑の裏にも回りましたが碑文はありません(気がつきません)でしたので、原爆戦災誌を紐解いてみました。
庚午地区原爆慰霊碑としていましたが、碑銘をみると“庚午北・高須町々内会”が建立したことがわかりましたので、「庚午・高須地区原爆慰霊碑」と改めました。 
2015年久しぶりに広電高須駅から碑が建立してある庚午第一公園に向かいましたが、2005年当時とは違い(区画整理があったのか?)道に迷う事もなくすんなり着きました。
遠くから碑の周りが変っているように思い、近づくと、説明板が設置され、碑裏に平成22年8月5日改修されたと加刻されていました。
掲載画像も見直し、新しく墨入れされた慰霊碑の画像などを加えこの頁を再編集しました。
15.08.23.再編集      05.04.08 裕・記編集

05.03.19撮影
広島市西区庚午北2-14  庚午第1公園

05.03.19撮影
庚午北・高須町々内会      原爆慰霊碑

05.03.19撮影

15.05.28.撮影

15.05.28.撮影
説明板、献花台が増設されていました

15.05.28.撮影

15.05.28.撮影
(墨入れされていました) 平成二十二年八月五日改修

15.05.28.撮影

15.05.28.撮影

15.05.28.撮影



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「平和祈念碑等建立地一覧」編



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