(移設前)旧・三菱造船職員慰霊之碑

  西区観音新町の三菱会館裏に建立されている(いた)「三菱造船職員慰霊之碑」です。
広島南道路の2014年3月開通に向け三菱重工工場内に(移設)新設されていました。
三菱重工は爆心地から遠く工場での死亡者は少なかったそうですが、建物疎開作業で雑魚場町に出ていた約60人が被爆死したそうです。、
1945(昭和20)年8月6日米軍投下の原爆による215名の犠牲者の慰霊とともに職務災害で亡くなった殉職者も慰霊対象だそうです。
慰霊之碑建立は、1960(昭和35)年1月5日だそうです。
※三菱重工業広島造船関係者43人を合祀しているという資料もあります。
1943(昭和18)年4月三菱重工広島造船所、機械製作所がここ観音地区に竣工し、軍需品(魚雷艇等)を造っていたそうです。
三菱重工は観音地区の機械製作部門、江波地区に造船部門があり、多くの動員学徒や女子挺身隊員などや朝鮮人の強制連行された人々も働いていたそうです。
平和記念公園に建立の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」碑文には広島市内では数万人が被爆し2万余人が亡くなったと記述があります。
わたしは報道ではじめて「三菱広島元徴用工被爆者裁判」のことを知りました、
『元三菱徴用工の韓国人被爆者6名が国と三菱重工に対し被爆補償一人当り1000万円と未払い賃金相当額6655万3510円の損害賠償を請求した三菱重工朝鮮人強制連行損害賠償請求訴訟が起されています。
2005年1月広島高裁は原告の請求を一部を認めましたが、最終判断を最高裁にゆだねることになった』
と報道で知りました。
2007年最高裁は被告の上告を棄却し高裁判決を支持する判決を出しました。
『広島市の旧三菱重工業の工場に強制連行され、被爆した韓国人の元徴用工のうち40人が、国や三菱重工業などに計約4億4000万円の損害賠償を求めた三菱徴用工裁判の上告審判決が10月31日、最高裁でありました。最高裁は、在外被爆者への手当支給を認めなかった旧厚生省の行政通達を違法とし、国に4800万円の支払いを命じた広島高裁判決を支持した』
そうです。
この碑が建立されていることは資料で以前から知っていましたが、行く機会がありませんでした。
2005年観音小学校の被爆樹木を撮影に行ったときに足を伸ばして訪ねました。
碑文は碑の廻りには見当たりませんでしたが、前日降った雪が碑の裏側に僅かですが残っていました。
太平洋戦争中、朝鮮半島から広島市の旧三菱重工業の工場に強制連行され、被爆した韓国人の元徴用工の報道を耳にしていましたので、最高裁の判決を追記しました。
2015年被爆70年ですので、「原爆関連の慰霊碑」を再度巡れる処を巡っているのですが、ここ観音新町の 「三菱造船職員慰霊之碑」を訪ねのです。
北側すぐのところに広島高速3号線・広島南道路が2014年3月開通し周りの風景は変っていました。
そして、慰霊碑はとみたのですがないのです。
そこで、(慰霊碑があった建物)三菱広島組合会館で尋ねたのです。「南道路建設に伴って三菱重工の工場敷地内に移設された」と云う事でした。
教えていただいたので、三菱重工工場入口・門監所で原爆慰霊碑をお参りし撮影したい旨を告げました。
守衛の方に上記の事をお願いしましたので、担当部署と思われる処に連絡していただき、許可がおり、(旧デザインとは違う新しく建てられていた)慰霊碑を撮影しましたので、別頁で編集しました。
このいまは無いこの慰霊之碑は、標題を「旧・三菱造船所慰霊之碑」としました。
15.08.17.更新   06.01.01裕・編集

05.12.06.撮影
広島市西区観音新町4-8-2 (三菱会館裏)

05.12.06.撮影
建立:1960(昭和35)年1月5日

05.12.06.撮影

05.12.06.撮影
(前日の雪がわずかですが残っていました)

05.12.06.撮影



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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