広島市立高女原爆追悼碑

  東区戸坂千足の持明院に建立されている「広島市立高女原爆追悼碑」です。
広島市立第一高等女学校の職員・生徒は木挽町(現在中島町、爆心地から≒500m)で建物疎開作業中に被爆し、全員犠牲となったそうです。
戦後、近くの木挽町の持明院住職が犠牲者の遺骨を発見、境内に安置供養されたそうです。
その縁で、1951(昭和26)年広島市女原爆遺族会により持明院に碑が建立され、1966(昭和41)年現在地へ持明院が移転しましたのでこの碑も移設されました。
































































































*掩い(おおい)≒おおい隠す   *木枯らし≒秋の末から冬の初めにかけて吹く強く冷たい風。季語:冬






























































 














































 






























































































ここ持明院に建立の追悼碑は、1951(昭和26)年8月6日木挽町(現:中区中島町)にあった持明院に建立されました。1966(昭和41)年持明院の移転にともない現在地の持明院に移設されました。
現在、平和大通り緑地帯に移設されている慰霊碑には原爆という文字はありません(占領下、原爆慰霊碑の建立が許されず当初『平和塔』として校内に建立され、その後「校内に慰霊碑を作ってはならない」という広島県の通達で持明院に隠されたりしたのです)。
持明院建立のこちらの碑には「市女原爆追悼碑」と原爆の文字が使われています。
※資料は慰霊碑解説のしおり(被爆体験証言交流の集い編)他を参考にしました
慰霊碑の名称をわたしは、石碑に刻まれている「広島市立高女原爆追悼碑」を採用していますが、平和大通り建立の説明板には「広島市高等女学校原爆慰霊碑」という本来の校名を採用しています。
資料をみてここ東区戸坂の持明院境内にこの碑が建立されていることを知り2006年訪ね、頭を垂れた後、撮影しました。
東区牛田生まれのわたしですが、戸坂の事はほとんど知らない処で、地図をみてやっとたどり着く事が出来ました。
2015年バスから降りるバス停を千足ではなく「広島ゴルフ場前」で降りるとすぐでした。
資料にある宮川校長の碑文を参考にして編集しましたが、
今(2015)年見直していると古枯?をきくという言葉に引っかかったのです。碑の裏側の碑文をみると「木枯」でしたので、今回訂正しました。
被爆した暑い夏が過ぎ、木枯らし吹くころこの詩をつくられたのだろうな〜とわたしは思いました。
2015年久しぶりに訪ね撮影しましたので、この頁を再編集しました。
15.09.06.再編集    06.06.11裕・編集

06.05.17撮影
広島市東区戸坂千足1-12 (持明院境内)

06.05.17撮影
追悼碑の根際に碑説明石碑が建立されています

06.05.17撮影

15.08.28.撮影

15.08.28.撮影

15.08.28.撮影

15.08.28.撮影

15.08.28.撮影

15.08.28.撮影



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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