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東区戸坂桜上町の正池平墓地に現在建立されている「戸坂(原爆死没者)供養塔」です。 |
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戸坂地区は爆心地から比較的離れ(爆心地からくるめぎ≒3.9km〜北端の山地で≒6.7km)ているため、原爆による大きな被害はなかったそうです。
被爆後、市内中心部から避難してきた多くの被災者の救護に村民をはじめ、戸坂国民学校(現在の戸坂小学校)に所在していた陸軍病院戸坂分院の軍医などが当たった戸坂区で死亡した約600人は、村民などにより荼毘に付されたそうです。
1945(昭和20)年10月遺骨が長尾山に仮埋葬され、そこへ標識として供養塔が建てられました。
1959(昭和34)年4月遺骨は平和記念公園内の原爆供養塔に納められました。
1995(平成7)年4月、供養塔が現在地に移設されました。
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戸坂地区の死没者およそ600柱の方々を供養する供養塔、戸坂村が建立し(町村合併で広島市になり)広島市が管理を引き継ぎました。
※1955(昭和30)年4月10日安芸郡戸坂村は広島市に編入されました。 |
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平和記念公園に建立の「原爆供養塔」根際の説明板を読むと、『昭和30(1955)年8月19日、戸坂町に眠る遺骨600柱を納骨する』とあります。 |
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広島原爆戦災誌によると |
戸坂地区は爆心地からくるめぎ≒3.9km〜北端の山地で≒6.7kmで当時、建物総戸数307戸世帯数377、人口1440人であった。
『原爆炸裂時の人的被害は即死者くるめぎ5人、千足5人、惣内(不明)、山根3人、数甲3人、大上4人、出江6人。また、被爆後市中から殺到した被災者を戸坂国民学校にあった広島第一陸軍病院戸坂分院で医療救護に当たった。
死亡者は約600人であったが、軍民の区別なく軍の衛生兵と警防団が協力して軍用トラックで火葬場に運び一度に30人くらいの遺体を二段にならべて供出用の松根の残りと各部落から供出した割木で荼毘にふした。
これらの遺骨は1945(昭和20)年10月尾長山に仮埋葬をしそこへ標識として供養塔を建てた。
1959(昭和34)年4月遺骨を平和記念公園内の納骨堂に安置した』そうです。 |
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2006年資料をみて、訪ね撮影してこの頁を編集しました。 |
2015年久しぶりに訪ねた(前回はバスで桜ヶ丘団地入口バス停から)今回はJR戸坂駅から歩いて行きました。
2006年には住宅団地がこの墓地近くまで建っていたかな〜などと考えながら行きました。牛田山登山口(戸坂口コース)がこの墓地からはじまっているという大きな看板が設置されていることに今回気付き付きました。
供養塔を撮影しましたので、この頁を再編集しました。 |
15.09.07.再編集 06.06.13裕・編集 |