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中区千田町1丁目の鷹野橋交差点ロータリー南側に1977(昭和52)年に千田町1丁目の町民たちの原爆犠牲者を慰霊するために「ふりかえりの塔」が建立されました。 |
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ふりかえりの塔
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建立年: |
1977(昭和52)年8月6日 |
建立者: |
広島市千田町一丁目原爆慰霊碑建設委員会 |
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和 り 振 を 振 を い ど 迫 ` が た ド か
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十 し あ 返 び 返 か し い く ち は 々 り
二 て の る な っ れ い ┐ る ら り は の
年 は 日 が て 人 逃 火 で の 塔
八 な を 偲 ら は の げ の 助 下 た
月 ら い ` 声 て 海 け 敷 き
六 な 残 ま こ も 早 の を き 火
日 い り た ろ と く 前 求 と の
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ここ鷹野橋交差点に建立されていたこの「ふりかえりの塔」でしたが、広島市道鷹野橋宇品線の工事のため、2001(平成13)年広島大学の正門に仮移設されていました。
工事が終わり、もとのここ鷹野橋交差点の所にもどされました。 |
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東千田公園に2001(平成13)年9月立ち寄った時、入口(元広島大学入口正門)横に建立されている「ふりかえりの塔」をみようとした時なのです、塔がなかったのです、無くなったと慌てたわたしがいました。
わたしが知らなかっただけですが、元々は鷹野橋ロータリーの所に設置されていたのを鷹野橋宇品線の工事で、東千田公園入口に仮移設されていただけだったのです。 |
広島赤十字病院で定期検診後(わたしは)ぶらり散歩しながら平和記念公園に行っていますので毎回この碑を見ているのですが、今(2013年)回鷹野橋交差点の北側から、正面からこのふりかえりの塔を撮影し、この像の作者がわかれば再編集しようと思ったのです。しかし、像の作者のサインなどを(わたしには)探すことができずわかりませんでしたが、再編集しました。 |
2015年像をもう少しアップして撮影しましたので、この頁を更新しました。 |
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現在この塔を管理している千田町一丁目町内会の資料によると
『1977(昭和52)年町民被爆死没者の慰霊碑建設が計画されたが、その為のロータリーの土地使用許可が市役所から当初はなかなか下なかったのです。
その理由は、広島市としては、市中心地域で慰霊碑として宗教行事を認められない事と、一度慰霊碑建設を認めると、全市で許可申請を認めねばならなくなるためとのことだったのです。
そのため、この塔は、「慰霊碑ではなく、美術工芸観音像の建設」という名目で申請し、1977(昭和52)年5月使用許可が公布されました。故に、ここには花立てと線香立ては設置していないのです。』ということだそうです。 |
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平和記念公園内に1956(昭和31)年建立されている「中島本町町民慰霊碑」も、公園内に宗教的なものは建ててはならないとの指導があり観音像は彫刻家・荒井秀山作成の芸術作品「平和乃観音像」ということで建立が承認されたと聞きますので、それから20年も過ぎても政教分離という原則を市役所は曲げていなかったことが、この塔の建立経緯でも(わたしは)垣間見たように思いましたので、町内会資料を参照し追記しました。 |
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この像についても記述がありました。
『この観音像は、もともと中国から渡来した像で、個人宅で祀られていたものを、碑建設推進員の方を通して、千田町一丁目の慰霊碑の守り本尊としお祀りし、原爆犠牲者の霊を慰めたいと譲り受けた(寄贈された)のです。』ということで、観音像の作者は不明であることがわかりました。 |
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広島ぶらり散歩「野外彫刻など」編を編集していますので、この像の作者がわかればと思ったのですが、中国人の(特定)作者名はわかりませんでしたがこれも追記しました。 |
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17.06.14.更新 01.09.30裕・編集 |