広島県立広島商業学校職員生徒慰霊碑

  中区舟入南の県立広島商業に建立されている「広島県立広島商業学校職員生徒慰霊碑」です。
広島県立広島商業学校では、動員先の工場から、建物疎開作業に再動員されていた2年生45名が土橋付近(爆心地から≒800m)で、3年生45名が雑魚場町(現在・国泰寺町1丁目。爆心地から≒1,200m)で全滅しました。
1年生440人が疎開作業のため雑魚場町方面に行く予定で(当時皆実町にあった)学校に集合準備中だったので難を免れたそうです。




















































































  -碑裏面を拝見すると-
「在職在学中戦歿者氏名」順不同ということで氏名が刻まれ、追記など後日刻まれたと思える文字も見えます(それほど混乱した状態だったのでしょうが)。
職員8名、1年18名、2年60名、3年21名、4年33名+追記1名
(141名のお名前が刻まれていました)
  -広商の資料では-
1945(昭和20)年11月8日戦災物故者追弔法要が行われ
(
職員3名、4年33名、3年21名、2年64名、1年17名、計138名)となっています。
広島県立広島商業学校略沿革
1900 明治33年2月11日 広島商業学校と称す(創立記念日)
1901 明治34年6月21日 広島県立広島商業学校と改称(材木町誓願寺内仮校舎で授業)
1902 明治35年4月1日 竹屋村の新校舎に移転
1934 昭和9年11月20日 江波町の新校舎に移転
1944 昭和19年5月17日 陸軍兵器学校広島分教所として校舎を徴用される
皆実町広島師範学校旧校舎に移転
1945 昭和20年8月6日 原爆で皆実町校舎全焼。職員生徒は皆実町校舎、市役所東側、土橋付近にて被災
昭和20年11月8日 戦災物故者追弔法要
(職員3名、4年33名、3年21名、2年64名、1年17名、計138名)
昭和20年11月11日 江波校舎に復帰
1948 昭和23年5月3日 〜昭和35年2月15日(学制改革で紆余曲折あり)再び江波町旧校舎に復帰
1961 昭和36年9月30日 原爆慰霊碑建立
☆資料は広島県立広島商業高等学校の資料を参考にしました
広島商業は、明治生まれのオヤジが卒業した学校です。
原爆関連の慰霊碑を巡りだして6年近くが経った2007年のいまになってはじめて広商を訪ねました。
もっとも学校沿革によれば、竹屋町に校舎があった時代ですのでこの地で学んだわけではないようですが、大東亜戦争時代は支那にいきそしてビルマ戦線へと従軍し、多くの戦友を失い。帰国後は、(わたしが知っているくらいですから)マラリアの後遺症に長く悩まされていました、オヤジの口から直接的に戦争の体験をほとんど聞いた事が無かったな〜と。
(2007年)この碑の前で頭を垂れ、大木惇夫さんの碑文を読み、佇んで考えてしまいました。
2015年久しぶりに訪ね撮影しましたので、この頁を再編集しました。
15.07.17.再編集     07.03.02裕・記編集

07.02.13.撮影
広島市中区舟入南6-7-11

07.02.13.撮影

07.02.13.撮影

07.02.13.撮影
昭和36(1961)年9月30日

07.02.13.撮影
在職在学中戦歿者氏名

15.04.18.撮影

15.04.18.撮影

15.04.18.撮影

15.04.18.撮影

15.04.18.撮影

15.04.18.撮影



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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