大野陸軍病院供養塔

  廿日市市大野宮浜温泉の洗心園に建立されている「大野陸軍病院供養塔」です。 
ここ大野町宮浜(現:廿日市市大野宮浜温泉)地区一帯が大野陸軍病院でした。
昭和20(1945)年5月(赤十字病院大野結核療養所)は多くの結核患者が収容されていましたが大野陸軍病院となり、同(1945)年8月6日米軍の原爆投下以後、多数の原爆被爆者も収容されました。
(8月15日:戦争終結の大詔渙発せられ、敗戦)
昭和20(1945)年9月17日午後10時20分過ぎに枕崎台風により宮浜地区一帯に山津波(大規模土石流)が起こり、一瞬にして病院の本館を海の中まで押し流し入院中の患者と被爆者のほとんど全員と医師、看護婦(看護士)をあわせて156名※の尊い命を奪いました。
原爆患者約100名、京都大学研究班11名、結核患者・職員医師看護婦(士)・付添の人約45名。
災害後大野陸軍病院は閉鎖となりましたが、当時の斯林(しばやし)院長や(大野出身の)大下薫准尉らが残務整理をされておりましたが、後片付けが進むにつれ白骨化した遺体が時々発見されました。
心痛まれた大下薫さんは鎮魂のため慰靈碑を計画(米一斗と物々交換で)大野村の石材店に供養塔を発注、昭和20(1945)年12月8日病院東側(旧看護婦宿舎跡・12号棟)の海を見下ろす小高い丘に建立されました。
時が過ぎ供養塔は雑草に埋もれるようになって来ていましたが、昭和45(1970)年四田増五郎さんが設立された特別養護老人ホーム・洗心園の一角を整地整備、供養塔を移すとともに昭和42(1967)年建立の「石文碑」と、「観音像」を建立され今日に至っています。
*上記資料は、「大野歴史ガイドの会」西尾賢二さんがまとめられた資料を参考にさせていただきました。
日本赤十字病院大野療養所は大野瀬戸を経て≒2000m前方に安芸の宮島を望む、風光明媚な丘に段々に建つ明るいサナトリウム(sanatorium:療養所)で、建物26棟が建っていました。
大野陸軍病院当時は医官10名、看護婦(看護士)100名、衛生兵62名、薬剤師2名で、500床を持つ2階建ての建物でした。
大下薫さんが存命中、昭和57(1982)年、昭和58年、昭和60(1985)年と3回催された「大野陸病・友の会」では、枕崎台風に伴う犠牲者156名、原爆収容患者物故者350名、一般患者(結核患者含む)811名、その他(大野陸軍病院閉鎖後物故者)25名の合計1342名の物故者の冥福を祈り供養塔をお参りされたそうです。
原爆関連慰霊碑で知り合った平和推進活動をされているMさんから、「大野歴史ガイドの会」長倉会長、会員の西尾氏に案内説明していただくことになり大野陸軍病院供養塔などを訪ねますがと声をかけていただいたのです。大野陸軍病院のことはほんのわずかな知識しかなかったわたしでしたので、お願いしてご一緒させていただきました。
碑文は、「水害死歿者」と直接的な原爆死没者の慰霊碑ではない☆表現になっていますが、被爆され治療されていた方々が含まれていること、また京都大学の原爆災害調査班遭難者の方々の慰霊碑が昭和45(1970)年建立されている(ことは資料で知っていましたので、機会があったら伺って原爆関連慰霊碑の頁に掲載しようと思っていました)ので、この「大野陸軍病院・供養塔」も原爆関連慰霊碑の頁に掲載することにしました。
2012年2月平和記念資料館で開かれていた「広島、1945」には-写真が伝える原爆被害-と副題が付いた中で、大野病院の被害状況のパネルが2枚展示してありました。2014年のいまになりましたが、追記し、この頁を更新しました。
14.12.21.更新    08.02.17裕・記編集

08.02.14撮影
廿日市市大野宮浜温泉1-2-18  洗心園

08.02.14撮影

08.02.14撮影
昭和20(1945)年9月19日GHQ(連合国最高司令官総司令部)がプレスコードを指令し以後原爆関係報道は影をひそめるという状況でした。
この供養塔建立12月8日は原爆という言葉はもちろん、供養塔という言葉が刻まれたいしぶみは一般的には建立できなかった状況であったろうと思うのです。
大下薫さんは水害死歿者ということを強調することで、(また広島市内から少し離れていた地であったことで)この碑の建立ができたのではないのだろうか?と考えたのです。
それにしても、大下薫さんは何者にも動じない勇気を持ち、亡くなった方々への強い供養の気持ちがあった方であったのだろうと、碑の前に佇みわたしは思ったのです・・・

08.02.14撮影


























































歿











































































調





















  ※広島県佐伯郡大野町は2005(平成17)年11月3日廿日市市に編入消滅しました
  土石流が襲った大野陸軍病院
     1945(昭和20)年10月14日佐伯郡大野村
原爆で負傷した人たちは広島市の近隣の病院にも収容されており、広島市の南西にある佐伯郡大野村(現在:廿日市市大野)の陸軍病院にも100人近い患者が入院していました。
また9月5日京都帝国大学の調査班が原爆被害の調査に広島を訪れ、大野陸軍病院を宿泊施設としていました。この病院を枕崎台風による土石流が襲い、約200人が亡くなりました。
   撮影:菊池 俊吉 (写真)提供:菊池 徳子
2012年2月平和記念資料館で開かれていた「広島、1945」には-写真が伝える原爆被害-と副題が付いていました。
その展示パネルの中で、ここで取り上げた大野病院に関するパネルが2枚展示してありました。
いままで、資料の中でみてはいましたが、この頁に加えたら被害の一端がわかるものになるだろうと(フラッシュを焚かずに)撮影しました。2014年のいまになりましたが、追記し、この頁を更新しました。

12.02.09.平和記念資料館展示パネルを影
大野陸軍病院関連展示パネル
枕崎台風(昭和20年台風第16号)
 【気象概況】
枕崎台風は、昭和20(1945)年9月17日14時35分ごろ九州南部に当たる枕崎付近に上陸、九州を横断、佐田岬、伊予灘、広島を襲い、米子、松江を荒らして18日朝、能登半島の西側から日本海に抜け、新潟の北から東北地方へ再上陸して太平洋に抜けました。
雨の最も強かったのは17日21時7分から22時7分まで57.1mmでした。
特に被害のひどかった呉地方では、この台風によって16日9時頃より降り始め、16時ごろ本格的な降り方となり風が相当強くなって、17日早暁、雨は依然として降り続いていましたが、風は全然なくなりました。10時ごろ、また風が出はじめ、午後になり雨と風とともに強さを増し、18時より22時に至る4時間の雨量は113.3mmに達しました。
 【被害状況】
被害の最もひどかったのは、広島、呉市及びその周辺で、県全体では死者総数2,012人を数えました。
呉では、雨が風とともに強さを増した17日午後から各河川渓流は著しく増水し、18時から22時までの113.3mmの降雨の中、大小全ての渓流は、氾濫し、山腹の崩壊が相続き、二河川の堤防決壊を初めとして各谷間より土石流が急斜面を押し流れ、あっというまに1,162戸の家屋を流失、792戸を半壊、そして死者1,154名にものぼる大惨事となりました。
大野村(現:廿日市市大野)では丸石川で大規模土石流が発生し、この丸石川が敷地の中央を貫流する下流部の大野陸軍病院を直撃し180人近くの人が亡くなりました※。
資料は広島県土木部土木整備局砂防室の資料を参考にしました



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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(関連頁)
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