山陽中学校(職員生徒)追悼碑

  西区観音新町の(広島)山陽高校に建立されている「山陽中学校(職員生徒)追悼碑」です。
(旧制)山陽中学1年生約410人は、雑魚場町(現在の国泰寺町。爆心地から≒1,200m)や天神町(現在の中島町。
爆心地から≒400m)に建物疎開作業に出動し、そのほとんどが犠牲となったそうです。
また、当時、 山陽中学は、宝町(爆心地から≒1,200m)にあり、倒壊した校舎の下敷きになって亡くなった教職員・生徒もいたそうです。











































































































































































































碑文を読めば、校長、職員17名、生徒486名の504名もの方々が原爆で亡くなったことがわかりました。
(広島市の)建物疎開資料によると、山陽中学の建物疎開(雑魚場町附近での)死没者は生徒260名、教師5名となっていますので、他の動員先などで亡くなった方々も多くおられたことがわかります。
1907 明治40年4月8日 竹屋村(現・中区宝町)に私立広陵中学を運営する鶴虎太郎に、呉服商・石田米助が出資。私立広陵中学校設立(校主:石田米助、校長:鶴虎太郎)。
1921 大正10年 石田校主側は広陵中学校を山陽中学校に改称、理事長就任。
1933 昭和8年1月27日 山陽商業学校を創設
1945 昭和20年8月6日 原爆のため校舎及び付属施設全焼
1957 昭和32年8月6日 山陽中学校(職員生徒)追悼碑建立
1960 昭和35年1月26日 現在地(広島市観音新町)に工業科創設。
1966 昭和41年4月1日 全課程を宝町校地より観音新町校地に移転。
資料で山陽高校に原爆関連の供養碑が建立されていることを知ったのですが、観音地区でもはずれの方(勉学には静かな環境でいいのでしょうが)に位置していますので、訪ねたことはなかったのです。
今(2009)年になりましたが、通称平和記念式典が終わってから、マリーナホップ行きのバスで山陽学園前バス停で降りました。昼前でしたので、「山陽高等学校原爆死没者慰霊式」は終わっており、会場が片付けられようとしていました。
頭を垂れ撮影させていただき帰ろうとしたとき、11時10分より平和に関する集会が○○教室で行われるというアナウンスが聞こえてきました。
09.08.09裕・編集

09.08.06撮影
広島市西区観音新町4-12-5  (広島)山陽高校

09.08.06撮影

09.08.06撮影

09.08.06撮影



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編
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