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中区基町の広島城内堀南側緑地帯に建立されている「基町地区再開発事業完成記念碑」です。 |
明治維新後、広島は、中国地方の政治・経済の中心として発展し近代化していく中で、軍都としての性格を強めていきました。
広島城外堀と太田川に囲まれた城郭一帯は、「広島開基の地」とのことから、基町と呼ばれるようになりました。明治時代から昭和初期にかけて、基町には軍の施設が次々と設けられ、軍都を象徴する町となっていきました。1945(昭和20)年8月6日米軍による原子爆弾の投下により、爆心地に近かった基町は壊滅的な被害を受けました。
被爆後、市の中心に現れた広大な土地は性格を一変し、家を失った人々の住宅地として、また、公園、図書館、市民球場など、人々が集う場所として、広島の戦後復興に大きな役割を果たしました。
原爆による惨禍から目覚ましい復興を遂げた基町には大規模な商業施設が建設され、また、都心の公園には文化・スポーツ施設が整備され、日々多くの人々でにぎわっています。
ここで取り上げた1978(昭和53)年建立の「基町地区再開発事業完成記念碑」には『・・・この地区の改良なくして広島の戦後は終わらないと云われるまでになった。』と云っています。つまり、基町の再開発が終わったことで、曲がりなりにも広島が戦後の復興を遂げたということを示しているのでしょう。 |
ここから一望できる高層住宅群は、基町地区再開発事業により建設された県・市営の改良・公営住宅・公団住宅及び公社住宅であり、その戸数は4,566戸である。
この地区は古くは広島城の城郭として明治以降は軍都広島の中心として栄えていたが、昭和20(1945)年8月6日、史上初の原子爆弾により一挙廃墟と化した。
その後、戦災者や外地引揚者のための応急住宅及び木造公営住宅などが建てられたが、河川堤塘敷等に建設された民間住宅などとともに経年老朽密集の様相を呈するに至った、そしてこの地区の改良なくしては広島の戦後は終わらないとまで言われるようになった。
ここにおいて県・市は、住民の理解と協力を得て、住宅地区改良事業を基盤に再開発を行なうこととし、昭和43(1968)年度から33.36ヘクタールの区域にある2,600戸の老朽住宅を除去し高層住宅を建設した。実に10年の歳月と226億円余の巨費を要した大事業であった。ここに、事業の完成を記念し、この碑を建立する。 昭和53(1978)年10月11日 広島県・広島市 |
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平和記念公園に建立の「原爆供養塔」根際の説明板を読むと、『昭和45(1970)年4月3日、基町地区再開発工事現場で発見された遺骨10数柱を納骨する』とあります。 |
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この場所はいままで何度となく通りこの碑もそれとなく知っていましたが、碑文を読んでみると、抑えた表現ながら戦後の終焉を表現した碑文でしたので平和記念碑関連とはいささか異なりますが、この項目に入れました。
2006年撮影してこの頁を編集しました。
基町高層アパート群がいままでの画像ではわかりませんでしたので、後日横川から撮影してみました。 |
2015年久しぶりに撮影しましたので、この頁を再編集しました。 |
15.05.18.再編集 06.07.29裕・記編集 |