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中区南千田町の修道学園に建立されている「歴史に生きる」碑です。 |
1945(昭和20)年8月6日修道中学校3年生約140人は、広島陸軍兵器補給廠(爆心地から≒2,890m)に動員作業中被爆し、3人*が犠牲となったそうです。
この「歴史に生きる」碑銘を揮毫した平山郁夫(画家:1930-2009)も被爆した生徒の一人でした。
1993(平成5)年2月、旧陸軍兵器支廠の最後の倉庫が取り壊されたことに伴い、当時の3年生らは、思い出の多い被爆倉庫のれんがを保存し、被爆の証として平和の尊さを後世に伝えるため、記念碑建立を発意し、完成した記念碑には、被爆れんがのほか、旧広島市役所庁舎の被爆石なども組み込まれています。 |
*修道学園に建立の慰霊碑には、3年生の犠牲者4名のお名前が刻まれています。 |
歴史に生きる
平成5(1993 )年8月6日 東京芸術大学長 平山郁夫書 |
被爆建物 旧広島陸軍兵器支廠の外壁煉瓦
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旧広島陸軍兵器支廠は、昭和19(1944)年9月から昭和20(1945)年8月15日まで旧制修道中学校生徒が学徒勤労令による動員で作業に従事した場所である。昭和20(1945)年8月6日
3年生を中心とした多数の生徒がここで被爆した。
このたび旧広島陸軍兵器支廠倉庫の最後1棟(現在・広島市南区霞1丁目広島大学医学部構内)が取り壊されるにあたり、当時の動員生徒の醵金によって、その外壁煉瓦を本校で保存するに至った。 |
平成5(1993)年10月16日 修道中学校 修道高等学校 |
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資料によると、修道中学・高等学校河野富士雄校長は除幕式で、「人類で始めて原爆の被害にさらされた証拠物件が消えつつある。多数の人命を損ない文明を破壊した歴史は、後世の戒めとすべきだ。記念碑を永久に保存し、次代を担う生徒に語り継いでいく」と挨拶の言葉を述べられたそうです。 |
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2006年修道中学校職員生徒慰霊碑を訪ねた時、この「歴史に生きる」碑が、根際に建立されていましたので撮影しこの頁を編集しました。 |
2015年久しぶりに訪ね撮影しましたので、この頁を再編集しました。 |
15.07.09.再編集 06.10.12裕編集 |