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中区基町の太田川土手に広島市によって建立されている「広島第二陸軍病院跡・原爆被災説明板」です。 |
広島第二陸軍病院跡・原爆被災説明板
爆心地から約1,000m
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広島第二陸軍病院は、軍施設が立ち並ぶ基町地区の北西端に建っていました。(1945年8月6日)被爆当日、病院内には、職員330人、入院患者750人がいたとされていますが、一発の原子爆弾により倒壊炎上し、多くの死傷者を出しました。
美しい桜並木が入院患者をなごませた太田川の堤防には、わずかに残った職員が、ムシロやトタンを使って天幕を張り、臨時救護所を設置し、多くの負傷者の治療にあたりました。 |
写真説明:太田川堤防に設置された臨時救護所
1945(昭和20)年8月8日 川原四儀氏撮影 |
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’01.04.05 撮影 |
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当初、広島鎮台病院として設置され、陸軍予備病院、広島衛戍(えいじゅ)病院、広島陸軍病院と名前を変えました。太平洋戦争中は、基町地区だけで、4000床以上の収容力があったそうです。
1945(昭和20)年8月6日原爆により第一、第二陸軍病院とも倒壊炎上し、入院中の軍人患者約1000人が死亡、病院職員約7000人が死亡したそうです。 |
被爆前の1945(昭和20年)年5月に広島陸軍病院は、広島第一陸軍病院、広島第二陸軍病院、大野陸軍病院(元赤十字病院結核療養所)に分けられたそうです。 |
(えいじゅ)
衛戍: |
軍隊が常時駐屯して警備すること。 |
衛戍病院: |
旧陸軍で衛戍地に設けていた病院。 |
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2001年「ヒロシマの被爆建造物は語る」を参考にして訪ね撮影してこの頁を編集しました。
2015年被爆70年に訪ね撮影し、「広島陸軍病院原爆慰霊碑」の頁は更新しましたが、この原爆被災説明板の頁は更新していなかったのです。
2020年新型ウィルスで東京にある「えいじゅ(永寿総合)病院」で感染患者が多く出ているというラジオニュースでわたしは全くの勘違をして衛戍病院を思ったのです。
この頁をみると頁の更新をしていないことに今になってわかりましたので、被爆75年のいまになりましたが更新しました。 |
20.03.28.更新 07.07.02再編集 01.04.10裕・編集 |