広島刑務所(原爆被爆犠牲者)鎮魂・碑

  中区吉島町の広島刑務所に建立されている「(原爆被爆犠牲者)鎮魂・碑」です。
広島刑務所被爆50年にあたって 平成7(1995)年12月15日
昭和20(1945)年8月6日 広島市中心部への原爆投下により 当広島刑務所においても堅牢な外塀に守られたとはいえ建築物はほぼ全壊し多大な死傷者を生じました
被爆による即死・行方不明者等は職員8名 被収容者15名ですが そのご 原爆症により没した方々 職員家族 そして救護活動に関わり二次被爆者となった方々を数えれば その多大な死傷病者数の把握すら今となっては困難です
本年被爆50年にあたり これら多数の尊い原爆被爆犠牲者の霊を慰め あわせて 未曾有の惨禍を乗り越えて社会秩序の維持と安寧に挺身し 今日の広島刑務所の礎となられた多くの方々の功を記念し 永しえに記録するためこの碑を建立しました
後援:広島刑務所・職員一同  矯正協会・広島県教誨師会 広島県矯正事業後援会
広島原爆戦災誌によると、広島刑務所では、( 爆心地より≒1,810m〜≒2,250m)
『(職員):即死者2人、負傷者約100人。 (収容者):即死者14人、負傷者約500人。
原子爆弾の炸裂と同時に、窓ガラスは飛散、(木造建物が主でした)建物が倒壊した。その下敷きとなった職員や収容者が、あちこちで助けを求める悲鳴をあげ、負傷者が続出した。
胸部を爆風によって1/3くらい抉り取られて即死している者、頭部を1/6ばかり扶られて真赤な鮮血が湧き出て意識不明になっている者、風船のように腫れあがった顔をした者、工場から死体を運び出す者など、どの人も衣服はボロボロに破れ、身体はまっ黒く汚れ、ために血の色も茶色に見え、皮膚は剥げてぶら下り、凄惨な修羅場が一瞬の間に現出した。
爆風によって工場・庁舎(事務所)・舎房の大半が全壊した。また北側外塀に亀裂を生じた。
しばらくして所内十数か所から発火した。しかし熱線による自然着火ではなく、隣接民家の火災による飛火や、火鉢あるいは炉の火の上に家屋が倒壊し、着火したものと思われる。しかし、この火災は、収容者や職員がバケツリレーで送水し鎮火させた。従って火災被害は軽微であった。バケツリレーのほか、一部建物をこわすことによって延焼を防止したことも効果があって、発火後約30分にして鎮火した。・・・』とあります。
2000年頃から(わたしは)原爆関連の慰霊碑を巡りだし資料で、広島刑務所の中に“原爆関連の慰霊碑”が建立されている事を知りましたが、許可がいることなどでなかなか足が向かなかったのです。
被爆構築物に関する資料をみている時に、ここ広島刑務所の外塀が被爆したものとして現存しているとの掲載がありましたので、これは外から撮影すればいいので、2011年12月撮影したので頁を編集しようと思っていたら、2012年1月受刑者が脱獄する事件が起きましたので、頁の編集を中断し、2013年になって編集しました。
しかし、被爆した広島刑務所・外塀だけではと思い、原爆関連の慰霊碑を訪ねなくてはと改めて思ったのです。
今(2013)年8月6日平和記念式典に参列してから、ここ(中区の)広島刑務所を訪ねました。
面会受付所で、「原爆関連の慰霊碑」を訪ねてきたこと慰霊碑を撮影させていただきたいことを話しました。
担当者の方に連絡していただき、仕事中だったのでしょうからお手数をおかけしましたが、少しばかり待って、立ち会っていただき、「広島刑務所(原爆被爆犠牲者)鎮魂・碑」を撮影させていただきました。
「原爆関連の慰霊碑が建立されていることがよくお分かりになりましたね」と尋ねられましたので、(わたしが)参考にしている資料に慰霊碑が建立されている記述があったことで、何時かは訪ねようと思っていましたが(なかなか敷居が高く)いまになりましたと話ました。
13.08.21.裕・記編集

13.08.06.撮影
広島市中区吉島町13-114

13.08.06.撮影

13.08.06.撮影
「鎮魂」 法務大臣 宮沢弘

13.08.06.撮影

13.08.06.撮影
「鎮魂」碑の後ろ側は、被爆した外塀(の内側)です



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編


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