原爆犠牲新聞労働者の碑 (不戦の碑)

  中区加古町の本川緑地帯に建立されている「不戦」碑(原爆犠牲新聞労働者の碑)です。
  不戦   原爆犠牲新聞労働者の碑
慰霊対象者:125名→(2012年新しく)130名の方々
建立日:1985(昭和60)年8月6日建立
建立者:中国新聞社労働組合
新聞関係者の原爆で命を奪われた126名(銘板には125名のお名前が刻まれている)の冥福を祈り、不戦を誓った碑。
太平洋戦争末期には中国新聞社にも国民義勇隊が編成され他の新聞社、通信社の広島支局職員もこれに編入され総勢363名だったそうで、昭和20(1945)年8月6日もそのうちおよそ40名の方々が水主町附近(現・加古町のこのあたり)の建物疎開に動員され全員が爆死されたそうです。
*遺族の方が辞退された1名を除き、125名のお名前
2012年7月中國新聞報道によると、
『中国新聞分の2人(山本利さんと林秀太郎さん)と、同盟通信の3人の犠牲者が、碑の建立後に判明したので、銘板の更新を今回行った。碑に刻まれた犠牲者は、計130人になった。(別頁で編集)』そうです。
新聞関係原爆死没者・所属・人数
中国新聞 114名 +2
同盟通信(現・共同通信) 5名 +3
西日本新聞 2名  
読売新聞 2名  
朝日新聞 1名  
毎日新聞 1名  
合同新聞(現・山陽新聞) 1名  
2015年8月6日中國新聞報道によると、
『ことし(2015年)新たに2人の犠牲者が判明し、132人なった』と報道していました。
資料をみてこの碑を知り、2001年訪ねこの頁を編集しました。
ご存知の方からはそんなこともわからないのかと言われる事でしょうが、この碑の形が何を意味しているかはわたしは知りませんでした、2005年7月交流ウォークの時に教えていただき横から撮影しました。『
輪転機で新聞を印刷しているイメージとPENのPという文字を表している』そうです。
別資料を見ていると『Peace(平和)とPress(報道)の両頭文字をかたどったもの』との記述がありました。
2009年、2011年にも撮影しましたので追加しました。
2008年8月に碑裏側の犠牲者銘板を撮影していましたが、編集していなかったので、2015年になりましたが、別頁に追加しました。
2015年撮影しましたので、この頁を見直し、別頁(犠牲者銘板の別頁も)再編集しました。
15.08.07.更新   15.06.23.再編集   01.04.20裕・記編集

01.04.12撮影
建立地: 広島市中区加古町3 本川緑地帯

05.01.22 撮影

05.07.16撮影

05.01.22 撮影
不戦 1985.8.6.建立

09.12.21撮影

11.02.05.撮影

15.03.15.撮影

15.03.15.撮影

15.03.15.撮影

15.03.15.撮影
「(在伯広島長崎県人会)祈平和BRASIL」碑 と 「原爆犠牲新聞労働者の碑」
                          中國新聞略沿革
1892(明治25)年 5月 日刊「中國」として創刊。
1908(明治41)年 題字を「中國新聞」と改称。
1926(大正15)年 3月 (当時)上流川町にRC造3階建の新社屋竣工(本館)
1936(昭和11)年 12月 RC造7階建・塔屋3階の新館を増築
1945(昭和20)年 8月6日 原爆投下のため、本社も被災。(本館爆心地より≒890m)新館≒870m)
8月9日〜 島根新聞や九州、大阪の朝日・毎日新聞などの協力で代行印刷で対応
8月31日〜 温品(ぬくしな)疎開工場で自力印刷
1955(昭和30)年 9月 本館、新館(そのままで)を包込んで5階建てで一体化
1969(昭和44)年 9月 平和大通り沿いの現在地に社屋新築移転
1970(昭和45)年 胡町(旧町名:上流川町)の旧社屋解体(跡地は現在・三越百貨店)
中國新聞の略沿革08.04.01裕・記追記



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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原爆犠牲新聞労働者の碑
(新聞労働者)原爆犠牲者銘板
(本社展示)圓鍔勝三作:かたらい
中國新聞創刊之地・碑


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