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西区己斐上の己斐小学校に建立されている「原爆犠牲者慰霊碑」です。 |
1945(昭和20)年8月6日被爆直後、己斐国民学校(現在の己斐小学校)は救護所となりました。
校庭で荼毘に付された2千余人の犠牲者を慰霊する為、過っての児童が呼びかけこの慰霊碑を建立しました。
このモニュメントは、「千羽鶴」「五大陸」「地球儀」「放射能標識」そして「被爆した広島」をテーマにデザインされました。999羽の鶴で五大陸を表現し、1000羽目の鶴と地球儀を組み合わせた構成になっているそうです。
放射能標識は旧広島市役所庁舎の被爆石で表し、今なお放射線の被害に苦しんでおられる被爆者の思いが込められているそうで、「被爆した広島」は荼毘に付された学徒動員の方の形見のボタンや溶けたガラス瓶、食器、被爆した屋根がわらなどで原子爆弾の惨状を伝えているそうです。 |
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碑文
昭和20(1945)年8月6日午前8時15分。強烈な閃光と灼熱の熱波が広島の町に襲い掛かり、一瞬のうちに阿鼻叫喚の地獄になりました。
大火傷や大怪我をした多数の人々が、猛火の市内から己斐の地に逃れ来て、息を引き取りました。
目を覆う惨状の大混乱の中、遺体の氏名など確かめる余裕すら無く、この学校に無数の屍が運び込まれ、校庭に掘られた幾条もの溝の中で、昼夜を問わず荼毘に付されました。 その数2,000余柱。 特に、学徒動員中の男女中学生が多かった。
この目でみた事実を後世に伝え、無念の御霊を鎮魂し、久遠の平和を祈念して、己斐国民学校に在籍した有志一同の発起により浄財を募り、この碑を建立します。 |
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平成22(2010)年8月6日 己斐小学校に原爆のモニュメントをつくる会 |
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己斐国民学校は爆心地から≒2,900mで、原爆により校舎は小破だったそうです。 |
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モニュメントの総合企画・金工:若山裕昭(広島市立大学教授) 石彫部分:土井滿治(彫刻家)
祈り(題字):新藤兼人(映画監督:1912-2012)、文章本文:瀬良知霙(書家) |
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2015年広島市の資料で、この(己斐小学校)原爆犠牲者慰霊碑が建立されている事を知り、訪ねました。
2010年建立のこの碑ですので新聞などで報道されたのでしょうが、わたしは気がつかなかったのではじめて知ったのでした。
学校事務室で原爆慰霊碑をお参りし撮影したい旨を伝え、許可がおりました。グラウンドでは運動会の予行練習をしている児童たちを横目でみながらぐるっと回り慰霊碑の方に行きました。 |
15.08.24.裕・記編集 |