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安佐北区安佐町鈴張の長覚寺境内山門根際に建立されている「(鈴張地区)原爆慰霊碑」です。
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同じ鈴張地区の鈴張小学校裏手には、鈴張地区の戦没者(原爆で亡くなった方も含め)の方々に対して「鈴張(戦没者)慰霊碑」が建立されています。
この長覚寺の(鈴張地区)原爆慰霊碑は、原爆に被災してここ鈴張村に避難してきて亡くなった方々の慰霊碑として「(鈴張地区)原爆慰霊碑」が建立されています。 |
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(正面) |
原爆慰霊碑 |
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(裏面) |
昭和四十五年八月
鈴張地区民建之 |
*昭和45年=1970年 |
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広島市の公開資料によると
『1945(昭和20)年8月6日被爆当日から傷付いた被災者は鈴張村へも避難してききました。翌日(7日)以降、150人以上の負傷者がトラックで長覚寺に収容され、10月までに100人以上が亡くなりました。そのうち80人以上の遺骨は遺族、近親者に引き取られましたが、10数体の遺骨は引き取り手のないまま無縁仏として共同墓地に埋葬されました。1970(昭和45)年に共同墓地が移転することになり、遺骨が再び長覚寺に移され、地元鈴張地区の人々はこれら被爆者の死を悼み、この原爆慰霊碑を建立し、遺骨を納めました。』ということだそうです。 |
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広島戦災誌によると
『安佐町は、195(昭和30)年3月31日町村合併により、久地村・日浦村・小河内村・鈴張村・飯室村が合体したものである。爆心地から最短距離は約10.2km、最遠長距離は約24kmあり、広島市の北方にあって、原子爆弾投下機は当町の上空を通って飛び去ったといわれる。』と概説があり、
『被爆当日の1945(昭和20)年8月6日午後4時、広島市から、避難者が来はじめ、8月11日まで、トラックで続々運ばれてきた。被爆者の身なりは、切れ切れになった衣服をそのまま着用して見る影もなかったが、負傷個所は簡単な手当を受けていた。手当といってもまことにお粗末なかぎりで、顔を火傷した人には目、鼻、口だけ開けてガーゼを巻きつけた程度、手足を火傷した人には、油または赤チンを塗った程度の手当がしてあったが、それは治療という概念にはほど遠いものであった。』ということだそうです。鈴張に関する記述に関しては、
『鈴張村の長覚寺は疎開児童を36名1945年5月1日~被爆当日の8月6日まで受け入れていた。
避難者収容所ならびに収容中の死者数については、鈴張村の長覚寺で、収容数:150名、死体埋葬数:90、鈴張村字市火葬場で火葬。開設・閉鎖は8月8日~9月7日』とあります。
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資料でこの鈴張地区原爆慰霊碑が建立されていることは以前より知っていましたが、訪ねる足(交通手段)の問題で2015年(被爆70年)にも訪ねていませんでした。
2016年になり息子が父の日だから行きたいところに行って外食でもしようと云ってくれたのです。そうだな~と考えて、息子運転の車で、この「鈴張地区原爆慰霊碑」を訪ね親子頭を垂れ原爆で亡くなった方々のご冥福を祈りました。
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(現在の)国道261号線から一筋入った道路沿いにありますので、最初は通り過ぎてしまい戻って鈴張川沿い西側の道(旧国道だろうと思いました)に入り少し進んでお寺はわかりました。
長覚寺橋と名付けられた橋を渡り山門から入ったすぐ根際に建立されていました。 |
16.06.23.裕・記編集 |