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中区紙屋町の(現在)三井住友銀行広島支店に建立されている「住友銀行原爆物故者靈・供養塔」と「(住友銀行原爆物故者)慰霊・レリーフ碑」です。
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資料によると、被爆した住友銀行広島支店は(現在の)三井住友銀行とほぼ同じ位置に1928(昭和3)年12月に中島本町より移転、鉄筋コンクリート造4階+地下1階の新築建物だったそうです。
1945(昭和20)年8月6日、爆心地から≒260mで被爆しましたが構造的には被害は比較的小さかったが、スラブ(床)は亀裂が入り、窓や天井は吹き飛ばされ地階を除くほとんどが焼けつくされたそうです。
住友銀行全体で通勤途上などを含め29名が即死。建物から脱出した行員が3名いましたが、ほとんど無傷だった女性行員は放射能の影響から数日後に死亡されたそうです。 |
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“死の人影”を刻んだ入口の石段
入口の石段は、4000℃の熱線で犠牲者の影(石段の表面が剥離して白くなり、人体で遮られた部分が黒く残ったもの)が焼き付けられ、「死の人影」と呼ばれました。
1959(昭和34)年柵を設け、1967(昭和42)年強化ガラスで薄くなる影(経年劣化)を防止処理がされました。1971(昭和46)年住友銀行の改築で平和記念資料館に寄贈され、「人影の石」として展示されています。 |
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〔慰霊碑〕 |
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住友銀行原爆物故者靈・供養塔 |
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〔碑文〕 |
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永
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徳 |
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め
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碑文は1966(昭和41)年作詩
当時広島大学文学部・戸田豊三郎教授
明徳≒立派な徳性。生得の立派な本性。 |
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〔レリーフ碑〕 |
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慰霊 (揮毫者)小山史郎
(物故者)32名のお名前
昭和51年7月1日 |
昭和51年=1976年 |
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資料によると
『「弔原爆殉職者」として上記碑文が刻まれたレリーフ碑として、(広島支店28柱、駅前支店1柱の慰霊碑として)1966(昭和41)年7月建立された』とあります。
現在室内には 「弔原爆殉職者」レリーフ碑はなく、
上記、1976(昭和51)年7月1日建立の「慰霊」レリーフ碑があり、32名のお名前が刻まれています。 |
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資料でこの住友銀行広島支店慰霊碑が建立されていることは以前より知っていましたが、住友銀行を利用したこともなく敷居が高く足が向かなかったのですが、2016年になり8月6日平和記念式典後訪ねてみようと思いましたが、土曜日でしたので、18日広島赤十字病院での定期検診後立ち寄り、お参りさせていただいた後撮影したい旨を伝えました。
基本的に縁故関係者だけと云うことでしたが、担当責任者の配慮でお参りすることができ、撮影も許可していただきましたのでこの頁を編集できました。 |
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この日、資料にある三菱銀行広島支店慰霊碑も拝見できればと現在の三菱東京UFJ銀行広島支店も訪ね、お参りし撮影させていただきたいとお願いしましたが、
担当責任者の方(名前も名乗られましたが)に、縁故関係者以外お参りなどは現在(2016年8月現在)許可できないと云われたので、二冊の資料に掲載があることで知った慰霊碑、お参りし撮影を再度お願いしたのですが、資料出版当時は許可をしていたようですが、現在は許可できないと頑なに断られてしまいました。
この※は、三井住友銀行とは全く関わりないことですが、
同じ日に訪ねた原爆関連慰霊碑に対する対応・考えが大きく異なっていましたのでこの頁に書いています。 |
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16.08.20.裕・記編集 |