-碑の画像ありません- 三菱銀行広島支店原爆慰霊碑

  中区本通りの(現在)三菱東京UFJ銀行広島支店に建立されている「三菱銀行広島支店原爆(死没者)慰霊碑」のことをこの頁では取り上げています。
※2008年旧三和銀行原爆死没者(24名)を加えた新しい銘板が設置されています。
現在(2016年8月現在)「縁故関係者以外お参り、取材などは許可できない」と担当者の方に云われたので、(下記)二冊の資料に掲載があることで知った慰霊碑、お参りし撮影を再度お願いしたのですが、「資料出版当時は許可をしていたようですが、現在は許可できない」と頑なに断られてしまいました(ので碑の画像はありません)。
1982(昭和57)年7月15日黒川万千代さん著の資料によると、
『1945(昭和20)年8月6日在籍行員44人のうち22人が即死。爆心地から500mで生存目撃者はなく、木造建物だったので、原爆の爆発と同時に倒壊、炎上したものと推定されています。
同(1945)年8月9日から日本銀行広島支店の建物を使用して業務は再開されました。
碑は、1階営業室の壁面にあり、レリーフが埋め込まれていまます。』とあります。
(掲載の碑画像は住友銀行のものですので誤掲載のようです)
1982(昭和57)年8月西尾隆昌先生著の資料によると、
『「慰霊  田宮識」と刻まれた銅板プレート。
(別に)22名の氏名が刻まれた銅板プレートがその下に設置されている写真の掲載があります。
この碑の建立は、1967(昭和42)年8月6日とあります。
   -三菱銀行略沿革-
1895(明治28)年三菱合資会社銀行部、第百十九国立銀行の業務を継承して設立。
1919(大正8)8月株式会社三菱銀行、三菱合資会社銀行部の業務を継承して設立。
1948(昭和23)10月持株会社整理委員会より「三菱」商号使用禁止を命じられ、
                              「株式会社 千代田銀行」に商号変更。
1953(昭和28)年7月再び商号を「株式会社三菱銀行」に変更。
1994(平成6)年10月日本信託銀行を完全子会社化した。
1996年(平成8)年4月東京銀行を吸収合併、「株式会社東京三菱銀行」に商号変更。
2002年1月15日三和銀行(大阪市)と、東海銀行(名古屋市)が合併してUFJ銀行誕生。
2006(平成18)年1月株式会社三菱東京UFJ銀行となりました。
中國新聞2008年8月5日の記事を参照すると
『「慰霊碑なかった旧三和銀行員に光」
三菱東京UFJ銀行広島支店に、2008年9月4日慰霊碑すらなかった前身行の一つ、旧三和銀行の原爆犠牲者の名前を新たに刻む銘板が設置されました。
支店内には旧三菱銀行の犠牲者の銘板があったが、両行の死没者の名を並べた。伝統ある行名が相次いで消えた金融再編。荒波を乗り越えた銀行マンの心に平和への誓いは引き継がれている。
新たな銘板は支店二階の職員食堂にある。
銅製で縦35cm×横50cm。爆心地から約300mで被爆死した三菱銀広島支店の二十二人。そして市内に三支店があった三和銀の死没行員のうち、名前が判明している二十四人が並ぶ。
被爆当時の三和銀の人事情報は、会社に残っていないので、三和銀OB会広島支部長平林庸生(つねお)さん(75)に依頼、二十四人の死没者名簿の提供を受けた。三和の行員だった平林さんの父鉚一さん(当時42)は、爆心地から約200mの広島支店で被爆死した。』とありましたので、現在は三和銀行関係の方々も含めた慰霊板になっているようです。
資料で、三菱銀行広島支店慰霊碑を拝見できればと現在の三菱東京UFJ銀行広島支店を2016年8月18日訪ね、お参りし撮影させていただきたいとお願いしましたが、担当責任者の方(名前も名乗られましたが)に、縁故関係者以外お参りなどは現在(2016年8月現在)許可できないと云われたので、二冊の資料に掲載があることで知った慰霊碑、お参りし撮影を再度お願いしたのですが、資料出版当時は許可をしていたようですが、現在は許可できないと頑なに断られてしまいました。
この事は、同じ日に訪ねた三井住友銀行とは全く関わりないのですが、“住友銀行原爆物故者慰霊碑”の頁に記述していますが、
三菱銀行広島支店原爆慰霊碑の画像は資料を見ていただければわかるということで、この頁を碑の画像なしで、2017年の年末のいまになって編集しました。
17.12.25.裕・記編集

17.06.23.撮影
広島市中区本通7-19 三菱東京UFJ銀行広島支店

17.06.23.撮影
鯉城通り (画像右側に三菱東京UFJ銀行広島支店ビルがあります)



「平和祈念碑等建立地一覧」編
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