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安佐北区口田南の教蓮寺・矢口が丘墓苑の山側に建立されている「南无阿弥陀佛」と刻まれた供養塔です。
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広島市の資料によると
『安佐郡口田村※1は、爆心地から離れていることもあり、人的被害はなかったが、爆風によって建物の屋根や建具などが破損しました。
1945(昭和20)年8月6日被爆後、市内中心部から多くの被災者が逃れてきて、口田国民学校(現在・口田小学校)や口田村農業会(現在・JA広島)に約380人が収容されました。そのうち約70人が犠牲となり、河原で荼毘に付されたり、山林に土葬されたりしました。戦後、矢口の火葬場にあった慰霊碑を現在地に移設し、原爆慰霊碑として再建立しました。』とあります。 |
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(正面) |
南无阿弥陀佛 親鸞 |
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) |
(裏面) |
昭和十二丁二月十六日
前田元一郎合掌建之 |
昭和12年(丁丑)=1937年 |
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口田村矢口の火葬場に1937(昭和12)年に建立された供養塔を、戦後前田家がこの地(矢口が丘墓苑)に原爆で亡くなった方々の供養塔として移転されたようです。 |
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広島市が云う慰霊碑がどの碑をさしているか(墓苑には各家のお墓ばかりで)わからなかったので、この墓苑から離れたところにある教蓮寺で話しをお聞きすればわかるだろうと訪ねたのです。
ご住職が居られましたので、墓苑のどれが、原爆関連の慰霊碑なのか尋ねたのですが、『原爆関連の慰霊碑は墓苑にはない』との答えでしたので、“広島市の資料では矢口の火葬場にあった慰霊碑を教蓮寺の墓苑に移設した”とあるのですがとお話しました。
山側にある碑がそれに当たるのかも知れないと云われたので、デジカメに撮影していた(この頁に掲載している)画像を見ていただき、それが広島市が云う慰霊碑かもしれないとのことでした。 |
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教蓮寺(・住職)としてこの供養塔が原爆死没者のために移設されたという確たる認識はなく、前田家が原爆死没者慰霊碑(供養塔)として移転再建されたのだろうとわたしは思いました。
また、(暑い日中でしたので人通りはなく)ご近所の2人の男性(30代後半、60代)だけでしたが、矢口が丘墓苑に原爆関連の慰霊碑が建立されていると聞いて訪ねてきたのですが、どの碑かご存知ないか尋ねたのですが、お二人ともそのような話は聞いたことがないとの答えでしたので。 |
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※1 |
広島戦災誌によると
『(戦後合併してできた)高陽町※2は、広島市の東北に位置し、爆心地から約15kmの距離にあります。広島市に近い口田村には、(1945年8月6日午前8時15分被爆当日)午前9時ごろから、狩小川村には正午、深川村には午後1時ごろから、翌7日夕方6・7時ごろまでにかけて、多数の負傷者が逃げて来ました。
口田村へは、広島市から県道あるいは鉄道線路沿いに、または山道を通って北へ北へと上って来ました。口田村の国民学校や農協事務所の二階は避難者でうずまったから、隣村の落合村へ残りの人々は上っていきました。』とあります。 |
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収容所名 |
開設日 |
収容者数 |
死体埋火葬数 |
火葬場所 |
閉鎖日 |
口田国民学校 |
8月6日 |
300 |
55 |
矢口火葬場 |
9月10日 |
口田農協事務所 |
8月6日 |
80 |
15 |
矢口、小田火葬場 |
9月10日 |
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※2 |
1889 |
明治22年4月1日 |
市町村制施行時には、高宮郡狩小川村・口田村・深川村 |
1895 |
明治28年9月1日 |
深川村のうち岩上・玖・末光・諸木が落合村になりました |
1898 |
明治31年10月1日 |
高宮郡+沼田郡=安佐郡となりました |
1955 |
昭和30年3月31日 |
落合村+狩小川村+口田村+深川村=高陽町 |
1973 |
昭和48年3月20日 |
広島市へ編入、安佐郡高陽町は消滅しました |
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今(2016)年6月父の日に息子と安佐北区の原爆関連慰霊碑三基を巡った時に交通手段の関係でまだ行っていない慰霊碑があると話ていたのです。
原爆関連の慰霊碑を訪ねお参りする人もごくわずかであることがわかったのでしょう、8月になって行ってみようと云ってくれたので、息子運転の車で安佐北区ここで取り上げた口田地区供養塔と大林地区慰霊碑を訪ねたのです。
事前に広島市の公開資料で場所を調べ、NET地図を印刷準備していましたが、当日出かけるときその資料を忘れ、行く途中に気が付き記憶の中で訪ねることになりました。
教蓮寺矢口が丘墓苑の位置はおぼろげながら覚えておりやっとやっとでつくことができましたが、慰霊碑のことを聞いてみようと思った教蓮寺の位置がわからず結局コンビニで道路地図を買う羽目になりました。 |
16.08.22.裕・記編集 |