道川・長七が丘第六号石棺

  安佐北区口田南の教蓮寺・矢口が丘墓苑中に移設・保存されている「道川・長七が丘第六号石棺」です。
※広島市内にある石棺としては、最大規模のものだそうです。
道川・長七が丘古墳           昭和57年1月吉日 広島市高陽台土地区画整理組合
発掘地:高陽町大字矢口字道川
昭和54(1979)年からの広島市高陽台土地区画整理事業の宅地造成にともなって、多くの古墳や住居跡が発見されました。
宅地造成に先だって行われた発掘調査の結果、この地に移転保存した箱式石棺は、半月形の墳丘をもち広島市内にある石棺としては、最大規模のものであることがわかりました。
なお、石室内部から鉄剣一本、石棺の周辺からは供献用の土器などが出土しており、これらのことからこの古墳は、今から凡そ1500年前の五世紀前半のころに営まれたものと考えられています。
高陽台遺跡群について広島市立口田小学校の公開資料を参照すると
『高陽台遺跡群は、二ケ城山(標高483.2m)から北西に派生する丘陵の尾根上にあって大字矢口字城前と字道川(どうがわ)にまたがって分布する三ヶ所の遺跡群(A,B,C)で、A群はA1地点とA2地点に分かれています。
A地点の遺跡は竪穴式住居跡を中心とした遺跡群であり、
B地点は古墳と住居跡からなる遺跡群であるが、
C群は、草谷の山崎薬師のある尾根の続きの頂上付近であって、矢口が丘団地の開発工事中に偶然見つかった貝塚です。
高陽台遺跡群(B)地点は、草谷の山崎薬師の北側の谷をはさんだ向かい側の高台にあって、鍋山の共同墓地に続くやや西側に突き出た位置にあって、この地からは、竪穴式住居跡2基、高床式住居跡1基、墳丘墓1基、古墳4基が見つかっています。
この住居跡からは多数の土器片と壺型土器が見つかり、高床式住居跡は6基のピットが確認されていますが、墳丘墓には、土壙1基と箱式石棺2基が認められ、弥生式の土器などが発掘されています。
このうちの第4号墳と呼ばれる古墳は、道川山(どうがわやま)の「長七が丘古墳」として現地に復元保存されています。
しかし説明用に建てられている石標に刻まれている第6号墳は第4号墳の誤りです。』とあります。
*土壙(どこう)墓≒土中に小規模な竪穴を掘り、遺骸を棺などを媒介とせず、布などで包んで直接埋める埋葬様式。
高陽台遺跡群発掘調査報告」広島市教育委員会公開資料に地図などもあり詳しいことがわかります。
安佐北区口田南の教蓮寺・矢口が丘墓苑に建立されているという口田地区慰霊碑を訪ねたのです。
慰霊碑を探して墓苑内をみていた時に出会ったのが、この「道川・長七が丘第六号石棺」でしたので撮影したのです。
主目的が口田地区の原爆関連慰霊碑でしたが、すぐに出会ったこの保存された石棺でしたが、主目的の慰霊碑はわからなく墓苑内を2度ほどみて回りました。
同じ、安佐北区口田の西願寺山墳墓群を2008年見学し頁を編集していることで、この辺りは古代から人が住み続けた地区だから、(近年の)宅地開発に適した地でもあったのだろうな~と思いました。
古墳群を壊しても宅地にする開発を古代人たちの霊はどう見ているのだろうかと考え、人口減に入った日本、将来には(古代の姿に戻ることはできなくても)昭和時代の遺跡?になりはしないのかと思ったりしましたが。
16.08.25.裕・記編集

16.08.20.撮影
広島市安佐北区口田南8-48 教蓮寺矢口が丘墓苑

16.08.20.撮影
道川・長七が丘第六号石棺 ・石柱 と 道川・長七が丘古墳・説明碑(上記)

16.08.20.撮影

16.08.20.撮影

16.08.20.撮影

16.08.20.撮影



「古墳遺跡遺構など」編



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